その後、ムーングロウズのハービー・フークワに認められ、同グループに参加したマーヴィンは、’61年、DCからデトロイトに移住、モータウン傘下のタイム・レーベルとソロ・アーティスト契約を結ぶ。デビュー・アルバム「The Soulful Mood Of Marvin Gaye」を発表するも、スタンダード系のナンバーを集めてジャジーな歌唱を聴かせるこのアルバムは商業的に失敗に終わってしまった。’62年、ハードなR&B色を打ち出した「Stubborn Kind Of Fellow」がR&Bチャートで最高8位となる初の大ヒットとなったマーヴィンは翌年、同曲を含む2ndアルバム「That Stubborn Kind Fellow」を発表、マーサ&ザ・ヴァンデラスを従えたシングル曲「Pride And Joy」はポップ・チャートでも初のトップ10に入るビッグ・ヒットとなって、マーヴィン・ゲイの名はたちまち有名となり、私生活でもモータウン社長、ベリー・ゴーディJr.の姉アンナと’61年に結婚していた彼はその後レーベルのプリンス的存在として君臨する事になる。
シュープリームスとの共演も経て、マーヴィンは’64年,当時モータウンの看板女性シンガーだったメアリー・ウェルズとのデュエット・アルバムを発表、これを期に、’66年にはキム・ウェストン、そして’68年にはタミー・テレルといった女性達と組んで一世を風靡、マーヴィンは押しも押されぬ人気者となり、名実共にスターとしての地位を築き上げた。ソロでも’65年発表の「Moods Of Marvin Gaye」からは初のR&BチャートNo. 1となった「I'll Be Doggone」、「Ain't That Peculiar」といったシングルをtリリース、また、彼が最も尊敬するシンガー、ナット・キング・コールに捧げたアルバム等、スタンダードへの拘りは忘れず、他にも2枚のスタンダード集を残している。’68年11月、グラディス・ナイト&ザ・ピップスのカヴァー「悲しい噂(I Heard It Through The Grapevine)」で初の全米No. 1を獲得、続く「Too Busy Thinking About My Baby」も大ヒットとなった。’70年3月、タミー・テレルが脳腫瘍のため死去、その悲しみから1年間は一切の音楽活動を中止し、対人恐怖症に陥り、内省的な日々を過ごした。
そして、彼にとってまさに決定的な転機となったのが、’71年2月に発表したモータウン初のトータル・コンセプト・アルバム「What's Going On」だ。ヴェトナム戦争や公民権運動など、当時の社会問題をあらゆる視点から捉え、訴えたこのアルバムは興行的にも大成功を収め、ソウル史に燦然と輝く名作として今尚音楽ファンの胸を熱くさせ、後世のアーティストに歌い継がれている。タイトル曲に加え、「Inner City Blues」、「Mercy Mercy Me」等、誰もが耳馴染みの深いナンバーだ。当時流行だった”ブラック・シネマ”のサントラ「Trouble Man」を経て、’73年には、「What〜 」とがらりと趣を変え、セックス”をテーマにしたもう一つの傑作「Let's Get It On」を発表。タイトル曲は5年振りの全米No.1となり、セックス・シンボルとして世の女性達の視線はマーヴィンに釘づけとなった。のちのライヴ・アルバムでも熱唱する「Distant Lover」での彼のヴォーカルもやはり忘れられない1曲だ。同じ年、久しぶりのデュエット・アルバムを発表、そのお相手ダイアナ・ロスと「You Are Everything」、「You're A Special Part Of Me」等の名唱を残した。
しかし、まさにこれから第2のマーヴィン時代到来という時に、あの悲劇は起こってしまう。’84年、マーヴィンの45歳の誕生日の前日の4月1日、両親のL.A.の実家に帰ったマーヴィンは、口論の末、父親に射殺されその短い生涯を閉じる。昨年、彼の生誕60周年を記念して制作されたトリビュート・アルバム「Marvin Is 60」を取り上げるまでもなく、死後もマーヴィンの魂(Soul)を継承するアーティストは後を絶えない。それほどマーヴィンの残した遺産は大きいのだ。