CD 輸入盤

ユーリ・アーロノヴィチ/ライヴ・コレクション(5CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
ERM2225
組み枚数
:
5
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


ユーリ・アーロノヴィチの芸術(5CD)
緩急自在の劇的なクライマックス構築と濃厚な情感表出!
爆演でありながら濃密なチャイコフスキー5番ほか、アーロノヴィチのライヴ録音集!


1976年から1992年にかけてバイエルン放送響、南西ドイツ放送響、ウィーン響、デンマーク国立響、スイス・イタリア語放送管、ケルン・ギュルツェニヒ管、エルサレム響を指揮したライヴ録音集。チャイコフスキー、リムスキー=コルサコフ、ショスタコーヴィチ、カリンニコフ、ベルリオーズ、リスト、ドヴォルザークなど、ロシア的だったりドラマティックだったりするアーロノヴィチ向きのレパートリーが中心ですが、シューベルトとウェーバーでのストレートな演奏も良い感じです。


リムスキー=コルサコフ:「スペイン奇想曲」
バイエルン放送交響楽団


1987年10月12日のステレオ録音。拍手無し。音質きわめて良好。

チャイコフスキー:交響曲第5番
バイエルン放送交響楽団


1981年1月22日のステレオ録音。拍手無し。音質きわめて良好。

ショスタコーヴィチ:交響曲第1番
南西ドイツ放送交響楽団


1989年1月14日のステレオ録音。拍手あり。音質良好。

カリンニコフ:交響曲第1番
南西ドイツ放送交響楽団


1992年5月28,29日のステレオ録音。拍手無し。音質きわめて良好。

ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」
ウィーン交響楽団


1980年8月7日のステレオ録音。拍手あり。音質良好。

ベルリオーズ:幻想交響曲
デンマーク国立交響楽団


1982年3月4日のステレオ録音。拍手あり。音質良好。

シューベルト:交響曲第5番
スイス・イタリア語放送管弦楽団


1970年代の録音。拍手あり。少し広がりがあり、疑似ステレオのように聴こえます。音質は良好。第1楽章は切れが良く俊敏な小気味良い演奏。第2楽章は十分に歌い上げる一方で副次部(02:31〜、06:43〜)の木菅の素朴な味わいも楽しめます。

ウェーバー:ピアノ協奏曲第2番
ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団、マルコム・フレーガー(ピアノ)


1979年9月8,9日のステレオ録音。拍手あり。音質良好。フレーガー(フレージャーとも)は1960年代にソ連でも活躍していたので、アーロノヴィチとは面識があったかもしれません。ここでは粒立ち良く鮮やかなフレーガーのピアノにアーロノヴィチが快活に合わせています。


リスト:交響詩「タッソー、悲劇と勝利」
エルサレム交響楽団

1984年5月13日のステレオ録音。拍手無し。音質いまいち。

ドヴォルザーク:交響曲第6番
エルサレム交響楽団

1984年5月13日のステレオ録音。拍手あり。音質いまいち。


 アーロノヴィチ情報

 幼少期

【生地】

1932年5月13日、ユーリ・ミハイロヴィチ・アーロノヴィチ、レニングラードに誕生。当時のレニングラードの人口は約268万人。アーロノヴィチ9歳の1941年にドイツ政府やフィンランド政府によって市民大虐殺が開始される直前の人口は約299万人。その後、ドイツ等による大虐殺のほか、大規模疎開と徴兵によって人口は大きく減少し、1944年の人口は約55万人。疎開者や出征者の帰還によって1946年には約154万人まで回復しますが、戦前の水準に戻るのはその11年後のことでした。


【名前】

ソ連時代の40年間は「アラノヴィチ」でしたが、イスラエルへの移民後、ラテン文字表記は「アロノヴィチ」を経て「アーロノヴィチ」と変更しています。といっても英語、ドイツ語、フランス語等でスペルはいろいろだったほか、ヘブライ語読みではアハロノヴィチで、さらにメロディヤ・レーベルと提携していたオイロディスク盤やWRC盤ではアラノヴィチ表記を採用するなどややこしい状況ではありました。アラノヴィチからアーロノヴィチに変更した理由は不明ですが、「アランの息子」という意味のアラノヴィチよりも宗教的な「アーロンの息子」としたかったのかもしれません。

【両親】

父ミハイルはレニングラード大学で数学を教えていましたが、音楽家の家庭の出身だったのでアマチュア・ヴァイオリン奏者でもありました。母アンナはレニングラード大学で法律を学び、同市の地方裁判所で弁護士として活動。


 教育

【家庭】

アマチュア・ヴァイオリニストの父ミハイルにより、4歳からヴァイオリンのレッスンがおこなわれています。また、5歳の時に家族とキーロフ劇場でチャイコフスキーの「白鳥の湖」を観た際に衝撃を受け、演奏後に両親に対して自分は指揮者になると語ったと言います。


【レニングラード中央音楽学校】

1947〜1950年在学。ヴァイオリンを専攻。同郷・同年生まれのフェドセーエフも、アーロノヴィチと同じくレニングラード中央音楽学校で学んでいますが、フェドセーエフは民俗楽器のコースでボタン式アコーディオンを専攻していました。


【レニングラード音楽院】

1950〜1954年在学。指揮クラスでラビノヴィチとザンデルリングに師事。


【ニコライ・ラビノヴィチ】


【クルト・ザンデルリング】


【ナタン・ラフリン】

アーロノヴィチが敬愛し長く交流して最も強い影響を受けたのがユダヤ人指揮者・教育者のナタン・グリゴリエヴィチ・ラフリン[1906-1979]。ラフリンは、自由自在でロマンティックな演奏を、完璧な指揮技術により最小限のリハーサルで実現したことで有名な人物。
   ウクライナ人民芸術家(1947)、ソ連人民芸術家(1949)、タタール人民芸術家(1972)の称号をおくられたほか、ウクライナ名誉芸術家勲章(1939)、大祖国戦争勲章(1945)、労働赤旗勲章(1948)、レーニン勲賞(1951)、スターリン勲賞(1952)、ソ連名誉勲章(1960)、10月革命勲章(1976)など叙勲。
  ラフリンはキエフ音楽院などで学び、1932年にハリコフ放送委員会交響楽団(ハリコフ・フィルハーモニー協会アカデミー交響楽団)、1934年にクイビシェフ交響楽団、1935年ドネツク放送委員会交響楽団(ドネツク交響楽団)を経て、1937年にウクライナ・ソ連国立交響楽団(キエフ国立交響楽団)の首席指揮者に就任。
  翌1938年、第1回全ソ連指揮者コンクールで第2位(第1位はムラヴィンスキー[1903-1988])を獲得し、同年からキエフ音楽院での教職も兼務。
   1941年にはナチス・ドイツがウクライナに侵攻・占領したためモスクワに移り、ドイツ系だったためグルジアに移されたアレクサンドル・ガウク[1893-1963]の後任として国立アカデミー交響楽団(ソ連国立交響楽団)の首席指揮者に就任し1945年まで在職。
  1945年、ナチス・ドイツが去ったウクライナに戻り、ウクライナ・ソ連国立交響楽団(キエフ国立交響楽団)の首席指揮者職とキエフ音楽院の教職を再開。
   1966年からカザンのタタールスタン国立交響楽団の創設準備に携わり、1967年には首席指揮者に就任して楽団活動を開始。同時にカザン音楽院の教授としても働き、1979年に同地で73歳で亡くなるまで務め上げています。


 コンサート

【カレリア交響楽団】

首席指揮者。1954年から1956年にかけて2年間在職。カレリア交響楽団は、ロシア北西部、カレロ=フィン・ソヴィエト連邦社会主義共和国のペトロザヴォーツクに1933年12月10日に「カレリア放送委員会交響楽団」として設立されたオーケストラ。1939年に同地にカレリア・フィルハーモニー協会が設立されると、オーケストラは協会傘下の「カレリア交響楽団(カレリア共和国交響楽団)」となります。1970年代には所属組織が代わって「カレリア・ラジオ・テレビ放送交響楽団」となり、1997年に再びカレリア・フィルハーモニー協会傘下の交響楽団となって現在に至っています。
  ペトロザヴォーツクは、ピョートル大帝の意向で1703年に建設された町で、レニングラードの北東約300kmに位置。1941年に同地はフィンランド領となり、フィンランド政府はペトロザヴォーツクに強制収容所を建設し、子供や女性など町に残っていた住民を強制収容。1944年8月に赤軍が同地を解放するまで、フィンランド兵による住民への暴行・殺害が継続。


戦後はソ連政府により、学校や音楽学校、劇場の建設に加え、鉄道の整備、駅の開設などもおこなわれて町は復興。卒業間もないアーロノヴィチも意欲に燃えて着任することになります。
  下の画像、アーロノヴィチが持っているカメラは、戦後ソ連で大人気だった「スメナ」。シリーズ累計3千万台近く売れた国民的カメラですが、アーロノヴィチはオプションのレンジファインダーまで取り付けていることから、メカ好きだったことがうかがえます。以後、アーロノヴィチは自動車(モスクヴィチ)や8oカメラにも熱中するようになります。


【サラトフ交響楽団】

指揮者。1956年から1957年にかけて1年間在職。サラトフはレニングラードの南東約1,400kmに位置する古都で、第2次大戦中に疎開者や負傷兵の大規模受け入れ施設によって発展。サラトフ交響楽団はソ連閣僚会議の芸術委員会によって1946年に設立され、サラトフのフィルハーモニー協会が主催する演奏会などで活動。当時の首席指揮者は、アーロノヴィチより35歳年長で、同じ音楽院出身のミハイル・ユリエヴィチ・シコルニコフ[1897-1966]。


【ヤロスラヴリ交響楽団】

首席指揮者。1957年から1964年にかけて7年間在職。ヤロスラヴリはレニングラードの南東約600km、モスクワの北東約250kmに位置する古都。
  ヤロスラヴリ交響楽団は、同地のフィルハーモニー協会で1942年から芸術監督を務めていたアレクサンドル・エフィモヴィチ・ウマンスキー[1910-1981]によって1944年に設立されたオーケストラ。ウマンスキーはオペラで働いたのち、モスクワ音楽院でチェロを学んだという人物で、1939年からヤロスラヴリ音楽院の教職に就き、25人の学内オーケストラを指揮。1942年にはヤロスラヴリ・フィルハーモニー協会の芸術監督に任命され、翌1943年、音楽院のオーケストラを市の文化行事に参加させるようになり、1944年12月29日に地域評議会執行委員会の決定により、フィルハーモニー協会傘下の団体としてヤロスラヴリ交響楽団を組織。といっても戦時中だったので30人規模でしかありませんでしたが、1947年には定期公演が年間30回を超え、ツアーもおこなうまでになり順調に成長します。
  しかし、1950年代に入るとウマンスキーの体調が悪化。他の指揮者もいなかったことから1950年代なかばにはオーケストラは解散の危機を迎えますが、そこにウマンスキーの後任として着任したのがアーロノヴィチでした。アーロノヴィチは楽団を活性化させるため、庭園などでの野外演奏や、レクチャー・コンサート、子供向けのコンサート、周辺地域への出張コンサート、そしてツアーなどもおこなって精力的に活動し人気を博すようになりゲストも大幅に増加。ヤロスラヴリ交響楽団の知名度上昇に大きく貢献し、日本の松浦豊明なども同地を訪れて共演しています。
  アーロノヴィチがここで得た高評価は、フレンニコフやショスタコーヴィチの目に留まることになり、全ソ連放送オペラ交響楽団の首席指揮者、サモスードの死去に伴う後任選びの際に、彼らの推薦を得ることに繋がっています。


【全ソ連放送オペラ交響楽団】

首席指揮者。1964年から1971年にかけて7年間在職。「全ソ連放送オペラ交響楽団」は、1957年にサモスード[1884-1964]を首席指揮者として全ソ連放送が創設したオーケストラ。アーロノヴィチはサモスードの後任。

全ソ連放送のオペラ・オーケストラ
ソ連の全国放送組織である「全ソ連放送(全ソ連ラジオ放送委員会、のちに全ソ連ラジオ・テレビ放送委員会)」は、コンサート・レパートリー用のオーケストラとして「全ソ連放送大交響楽団(モスクワ放送交響楽団として有名)」をすでに運営していたことから、「全ソ連放送オペラ交響楽団」のレパートリーはオペラや声楽が中心でしたが、コンサート・レパートリーも数多くとりあげています。

名称問題
「全ソ連放送オペラ交響楽団」は、なぜかレコーディングなどでは「オペラ」を省いて「全ソ連放送交響楽団」と表記されていたため、コンサート・オーケストラの「全ソ連放送大(ボリショイ)交響楽団」と非常に紛らわしくなっています。
  ロシア語「ボリショイ」は、目立つ言葉なので容易に区別可能としていたのでしょうが、「全ソ連放送大(ボリショイ)交響楽団」は、1953年から1960年代なかばまでは「大(ボリショイ)」が無い、「全ソ連放送交響楽団」だったので、その時期に制作されたレコードなどでの楽団表記については、両楽団はまったく同じものになり、区別するには指揮者名も加味して判断する必要があります。

全ソ連放送オペラ交響楽団の名称変更
その後、「全ソ連放送オペラ交響楽団」は、1981年に改組再編のうえ「ソ連文化省交響楽団」と改名し、1991年にはソ連文化省室内合唱団と合併して「ロシア国立アカデミー・シンフォニー・カペラ」となっています。

全ソ連放送大(ボリショイ)交響楽団の名称変更
一方、「全ソ連放送大(ボリショイ)交響楽団」は、1974年に「全ソ連ラジオ・テレビ放送交響楽団」と改名し、1979年にはそこに「大(ボリショイ)」を追加して「全ソ連ラジオ・テレビ放送大(ボリショイ)交響楽団」と変更。ソ連崩壊後の1993年には「P.I.チャイコフスキー記念国立アカデミー大交響楽団」と改名して現在に至っています。
【ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団】

首席指揮者。1975年から1986年にかけて11年間在職。29年間在職したギュンター・ヴァントの後任。アーロノヴィチは1974年にケルン歌劇場でヴェルディ「オテロ」を指揮しており、同年6月にギュルツェニヒ管弦楽団はアーロノヴィチを次期首席指揮者として指名。ギュルツェニヒ管弦楽団はケルン歌劇場管弦楽団がオーケストラ・コンサートをおこなう際の組織で、年間公演数も50回前後と少なめ。そのため客演活動も十分に可能でした。


【ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団】

首席指揮者。1982年から1987年にかけて5年間在職。スウェーデン音楽界への顕著な貢献が称えられ、スウェーデン国王カール16世グスタフより北極星勲章(コマンダー)が授与。北極星勲章の外国人指揮者への叙勲はこれが最初。


【客演オーケストラ】

パリ管弦楽団、フランス国立管弦楽団、ミュンヘン・フィル、バイエルン放送響、フランクフルト放送響、フランクフルト・ムゼウム管弦楽団、南西ドイツ放送響、バンベルク響、シュトゥットガルト放送響、ロンドン響、ウィーン響、デンマーク国立響、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、エルサレム交響楽団、エルサレム放送管弦楽団、スペイン国立放送交響楽団、読売日本交響楽団、ミラノ・スカラ座管弦楽団など多数のオーケストラと共演。



 オペラ

1974年にケルン歌劇場で「オテロ」、ロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場で「ボリス・ゴドゥノフ」を指揮して以降、、バイエルン州立歌劇場、シカゴ・リリック・オペラ、ヴェネツィア・フェニーチェ劇場、 トリノ王立劇場、スウェーデン王立歌劇場、ジュネーブ歌劇場、ローマ歌劇場、アレーナ・ディ・ヴェローナなど、多くの劇場に出演。

 レコーディング

アーロノヴィチのスタジオ・レコーディングは、ソ連のメロディヤ・レーベルで始まっています。「禿山の一夜」のモトネタも含むムソルグスキーのオペラ「ソローチンツィの市(ソロツィンスクの市)」や、ショスタコーヴィチの交響曲第1番、ラヴェルとフレンニコフのピアノ協奏曲(カステルスキー独奏)などのアルバムを全ソ連放送オペラ交響楽団(現物表記は全ソ連放送交響楽団)と制作。
  「ソローチンツィの市(ソロツィンスクの市)」は当時珍しいオペラの全曲レコーディングだったので、初回ソ連盤が1969年に発売された後、アーロノヴィチがソ連を去った1972年にアメリカ向けのメロディヤ/エンジェル盤が発売され、続いてイタリア向け、フランス向けも発売。さらにアメリカの通信販売向けにも発売するなど、西側での実績が無かったアーロノヴィチにとっては心強いリリースとなりました。
   西側への移民後は、ドイツ・グラモフォン、デッカ・フランス、アラベスク、パンドラ、RCA、ユニコーン、IMP、プロアルテ、カプリース、スウェディッシュ・ソサエティ、コッホ・シュヴァン、プロフィール、デルタなどからスタジオ録音とライヴ録音をリリースしています。

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 教職

若い頃にサラトフ音楽院で教授を務めたほか、イタリアのシエナ・キジアーナ・アカデミーでも教えており、さらに各地でマスタークラスも開催。





 トラックリスト (収録作品と演奏者)

CD1
1. ◆ リムスキー=コルサコフ:スペイン奇想曲 Op.34  15:56

  バイエルン放送交響楽団
  録音:1987年10月12日(ステレオ)

◆ チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 Op.64 48:47
2. I. アンダンテ、アレグロ・コン・アニマ 15:58
3.II. アンダンテ・カンタービレ 14:48
4. III. ヴァルス. アレグロ・モデラート 05:55
5. IV. フィナーレ アンダンテ・マエストーゾ 12:06

  バイエルン放送交響楽団
  録音:1981年1月22日(ステレオ)

CD2
◆ ショスタコーヴィチ:交響曲第1番 ヘ短調 Op.10 32:36
1. I. アレグレット. アレグロ・ノン・トロッポ 08:49
2. Il. アレグロ. メノ・モッソ 04:32
3. III. レント. ラルゴ. 08:35
4.IV. レント. アレグロ・モルト. メノ・モッソ 10:40

  南西ドイツ放送交響楽団
  録音:1989年1月14日(ステレオ、拍手あり)

◆ カリンニコフ:交響曲第1番 ト短調 38:24
5. I. アレグロ・モデラート 14:15
6. II. アンダンテ・コンモダメンテ 06:34
7. III. スケルツォ. アレグロ・ノン・トロッポ 08:04
8. IV. フィナーレ. アレグロ・モデラート. アレグロ・リゾルート 09:31

  南西ドイツ放送交響楽団
  録音:1992年5月28,29日(ステレオ)

CD3
1. ◆ ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」 Op.9  09:31

  ウィーン交響楽団
  録音:1980年8月7日(ステレオ、拍手あり)

◆ ベルリオーズ:幻想交響曲 ハ長調 Op.14 54:41
2. I. 夢、情熱 - ラルゴ. アレグロ・アジタート 15:46
3.U. 舞踏会 - アレグロ・ノン・トロッポ 06:42
4. IlI. 野の風景 - アダージョ 16:26
5. IV. 断頭台への行進 - アレグロ・ノン・トロッポ 05:16
6. V. 魔女の夜宴の夢 - ラルゲット. アレグロ 10:31

  デンマーク国立交響楽団
  録音:1982年3月4日(ステレオ、拍手あり)

CD4
◆ シューベルト:交響曲第5番 変ロ長調 D. 485 27:17
1. I. アレグロ 06:31
2. II. アンダンテ・コン・モート 09:55
3. III. メヌエット(アレグロ・モルト) 04:54
4. IV. アレグロ・ヴィヴァーチェ 05:57

  スイス・イタリア語放送管弦楽団
  録音:1970年代(拍手あり)

◆ ウェーバー:ピアノ協奏曲第2番 変ホ長調 J.155 Op.32 23:22
5. I. アレグロ・マエストーゾ 10:42
6. II. アダージョ 05:16
7. III. ロンド プレスト 07:24

  マルコム・フレーガー(ピアノ)
  ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
  録音:1979年9月8,9日(ステレオ、拍手あり)

CD5
1. ◆リスト:交響詩第2番「タッソー、悲劇と勝利」 S.96  20:47

  エルサレム交響楽団
  録音:1984年5月13日(ステレオ)

◆ ドヴォルザーク:交響曲第6番 ニ長調 Op.60 42:20
2. I. アレグロ・ノン・タント 12:39
3. II. アダージョ 12:39
4. III. スケルツォ(フリアント). プレスト 08:02
5. IV. フィナーレ. アレグロ・コン・スピーリト 09:00

  エルサレム交響楽団
  録音:1984年5月13日(ステレオ、拍手あり)
 Track list

CD1
1. RIMSKY-KORSAKOV: Spanish Capriccio, Op.34 15:56

Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
Recorded: 12th October 1987

TCHAIKOVSKY: Symphony No. 5 in E minor, Op. 64
2. I. Andante, Allegro con anima 15:58
3. II. Andante cantabile 14:48
4. III. Valse. Allegro moderatoe 05:55
5. IV. Finale. Andante maestosoe 12:06

Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
Recorded: 22nd January 1981
CD2
SHOSTAKOVICH: Symphony No. 1 in F minor, Op. 10
1. I. Allegretto. Allegro non troppo 08:49
2. Il. Allegro. Meno mosso 04:32
3. III. Lento. Largo. 08:35
4. IV. Lento. Allegro molto. Meno mossoe 10:40

Sinfonieorchester des Südwestfunks
Recorded: 14th January 1989

KALINNIKOV: Symphony No. 1 in G minor
5. I. Allegro moderatoe 14:15
6. II. Andante commodamente 06:34
7. III. Scherzo. Allegro non troppo. 08:04
8. IV. Finale. Allegro moderato. Allegro risoluto 09:31

Sinfonieorchester des Südwestfunks
Recorded: 28th and 29th May 1992
CD3
1. BERLIOZ: The Roman Carnival Overture, Op. 9 09:31

Wiener Symphoniker
Recorded: 7th August 1980

BERLIOZ: Symphony Fantastique in C Major, Op. 14
2. I. Reveries, Passions - Largo. Allegro agitato 15:46
3. II. Un Bal - Allegro non troppo 06:42
4. IlI. Scene Aux Champs - Adagio 16:26
5. IV. Marche Au Supplice - Allegro non troppoe 05:16
6. V. Songe d'une Nuit du Sabbat - Larghetto. Allegro 10:31

The Danish National Symphony Orchestra
Recorded: 4th March 1982
CD4
SCHUBERT: Symphony No. 5 in B Flat, D. 485
1. I. Allegroe 06:31
2. II. Andante con moto 09:55
3. IlI. Menuetto (Allegro molto) 04:54
4. IV. Allegro vivace 05:57

Orchestra della RTSI
Recorded: 1970's

WEBER: Piano Concerto No. 2 in E flat major, J. 155 Op. 32
5. I. Allegro maestoso 10:42
6. II. Adagio 05:16
7. III. Rondo. Presto 07:24

Malcom Frager, piano
Gürzenich-Orchester Köln
Recorded: 8th and 9th September 1979
CD5
1. LISZT: Tasso. Lamento e Trionfo, symphonic poem No. 2 S. 96 20:47

Jerusalem Symphony Orchestra
Recorded: 13th May 1984

DVORAK: Symphony No. 6 in D major, Op. 60
2. I. Allegro non tanto 12:39
3. II. Adagio 12:39
4. III. Scherzo (Furiant). Presto 08:02
5. IV. Finale. Allegro con spirito 09:00

Jerusalem Symphony Orchestra
Recorded: 13th May 1984


 年表

レニングラード
1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945 1946 1947 1948 1949 1950 1951 1952 1953
ペトロザヴォーツク
1954 1955
サラトフ
1956
ヤロスラヴリ
1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963
モスクワ
1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971
西側
1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002

 1932年/昭和7年 (0歳)

◆ 5月13日、ユーリ・ミハイロヴィチ・アラノヴィチ、レニングラードに誕生。父ミハイルはレニングラード大学で数学を教えていましたが、音楽家の家庭の出身だったのでアマチュア・ヴァイオリン奏者でもありました。母アンナはレニングラード大学で法律を学び、同市の地方裁判所で弁護士として活動。

◆ 12月、ソ連国内パスポート制度導入。

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 1933年/昭和8年 (0〜1歳)

◆ ソ連・ポーランド不可侵条約締結。

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 1934年/昭和9年 (1〜2歳)

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 1935年/昭和10年 (2〜3歳)

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 1936年/昭和11年 (3〜4歳)

◆ ヴァイオリンのレッスンを開始。

◆ 4月、ソ連政府、1ルーブル=4.25フランス・フランに設定。フランス・フランの切り下げにより。

◆ 8月、ニコライ・エジョフ[1895-1940]率いるNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)による「大粛清」の開始。多くの政府関係者と軍関係者を手早く処刑し、さらにそこに国民による爆発的な数の「密告」も加わって、2年間で60万人以上とも言われる膨大な犠牲者を生み出すことになります。

◆ 11月、スターリン憲法制定。官僚制を強化。

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 1937年/昭和12年 (4〜5歳)

◆ 大粛清継続。

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 1938年/昭和13年 (5〜6歳)

◆ 8月、ベリヤがNKVDの議長代理に就任し、エジョフの権限を奪うことで大粛清終了。ベリヤはスターリンと同じくグルジア正教の家庭の出身。11月には内務人民委員に選出。

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 1939年/昭和14年 (6〜7歳)

◆ 8月、モスクワで独ソ不可侵条約締結(秘密議定書では東欧分割も策定)。

◆ 9月、ドイツとスロヴァキアがポーランドに侵攻(第2次大戦開戦)。

◆ 9月、ソ連がポーランドに侵攻。

◆ 10月、ポーランド降伏。ドイツとソ連に分割占領。ソ連はウクライナとベラルーシに、領有したポーランドを割り振り、1941年7月のバルバロッサ作戦敗退までの約2年間、領有を継続。

◆ 11月、ソ連がフィンランドに侵攻。

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 1940年/昭和15年 (7〜8歳)

◆ ポーランド東部を、ソ連が領有。ポーランド東部の人口は約1,350万人。

◆ 2月、大粛清実行責任者エジョフとその部下たちが処刑。

◆ 8月、ソ連がバルト3国を併合。

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 1941年/昭和16年 (8〜9歳)

◆ 6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻。。

◆ 7月、1934年からレニングラード第一書記のジダーノフが同防衛委員会の責任者も兼務(1945年1月まで)。

◆ 7月、レニングラードで食料配給制開始。

◆ 9月、ウクライナの首都キエフのバビ・ヤールでユダヤ人など大量虐殺。虐殺実行部隊は約1,200人のウクライナ人と、約300人のドイツ人。29日と30日だけでキエフ市民のユダヤ人ら33,771人が殺害。その後も虐殺行為は続けられ、赤軍に解放される1943年11月までの2年間に計7〜12万人のユダヤ人、ロシア人、ウクライナ人、ロマなどが殺害。

◆ 9月、ドイツやフィンランドなどによるレニングラードへの攻撃が開始。まずドイツが食糧貯蔵庫や燃料貯蔵庫を爆撃。

◆ 10月、レニングラードの水道、ガス、電気施設をドイツが攻撃。

◆ 10月、ドイツによる爆撃でレニングラード市民の死者約6千人。

◆ 11月、ドイツによる爆撃でレニングラード市民の死者約9千人。

◆ 12月、レニングラード市民の餓死・凍死者約3万9千人。

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 1942年/昭和17年 (9〜10歳)

◆ 1月、ドイツの攻撃によりレニングラードの水道、暖房、電気が停止。

◆ 1月、レニングラードの食料配給停止。

◆ 1月、レニングラード市民の死者、餓死・凍死など約9万7千人。

◆ 2月、レニングラード市民の死者、餓死・凍死など約9万6千人。

◆ 4月、レニングラード市民の死者、餓死など6万4千人。

◆ 4月、「ユダヤ反ファシスト委員会」設立。アメリカの投資家たちから莫大な資金を調達。その資金をソ連政府は戦費として使用。

◆ 5月、レニングラード市民の死者、餓死など約5万人。

◆ 6月、ソ連、石油パイプラインをラドガ湖の湖底に敷設しレニングラードへの供給を開始。

◆ 6月、レニングラード市民の死者、餓死など約3万4千人。

◆ 夏、ドイツによるレニングラード猛爆撃。

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 1943年/昭和18年 (10〜11歳)

◆ 1月、赤軍がレニングラード包囲を突破。

◆ 2月、レニングラードへの食料と燃料の配給再開。

◆ 8月、クルスクの戦いで赤軍、ドイツに勝利(モスクワの南約500キロ)。

◆ 9月、スターリンとロシア正教会の首脳たちがクレムリンで会見を開き、教会宥和政策を発表、「戦闘的無神論者同盟」の解散も決定。

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 1944年/昭和19年 (11〜12歳)

◆ 1月、赤軍によりレニングラード解放。

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 1945年/昭和20年 (12〜13歳)

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 1946年/昭和21年 (13〜14歳)

◆ 3月、チャーチル首相がアメリカ訪問中、マスコミが注視する場で「鉄のカーテン」という言葉を使って演説。「鉄のカーテン」という言葉そのものは1918年のロシアで使われ始め、ドイツのゲッベルスも使用していましたが、政治・マスコミ向けの本格的なプロパガンダ・ツールとなるきっかけはこの時の演説でした。以後、世界の莫大な税公金が東西両陣営のプロパガンダや軍需産業に注ぎ込まれることになります。


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 1947年/昭和22年 (14〜15歳)

◆ レニングラード中央音楽学校 入学。

◆ 9月、コミンフォルム設立。スターリンに次ぐ存在でもあったアンドレイ・ジダーノフ[1896-1948]がスターリンの名のもとに組織したもので、ヨーロッパ各国の共産党との交流・調整を目的とし、アメリカのマーシャル・プランに対抗。

◆ 11月29日、国連でパレスチナ分割が決議。

◆ 11月30日、パレスチナ内線勃発。イギリス軍は放置。

◆ 12月4日、イギリスは翌年5月に委任統治を終了することを決定。

◆ 12月、ソ連で通貨切り下げ実施。現金交換比率10分の1になるものの、賃金、年金などは1対1の交換比率で、国家小売価格も引き下げ。輸出優先体制継続のため為替レートはそのまま。

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 1948年/昭和23年 (15〜16歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。1,175人が出国。

◆ レニングラード中央音楽学校 在学。

◆ 継続。ソ連はイスラエルを支援。

◆ 2月、ジダーノフ批判。西側コスモポリタニズムを批判し、文化全般についても社会主義リアリズムを重視した方針で統制することを宣言。

◆ 4月、ソ連作曲家同盟の第1回総会が開催。前身は「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」。スターリンとジダーノフにより、34歳のフレンニコフ[1913-2007]が書記長に選出。以後、フレンニコフは43年間に渡ってその地位を守り続けました。

◆ 5月14日、イスラエル独立宣言。イギリスによる委任統治終了。

◆ 5月15日、アラブ諸国がイスラエルに侵攻。第1次中東戦争勃発。ソ連はイスラエルを支援。

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 1949年/昭和24年 (16〜17歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。3,255人が出国。

◆ レニングラード中央音楽学校 在学。

◆ 11月、第1次中東戦争終結。

◆ ソ連政府、反シオニズム・キャンペーンを開始。新聞・雑誌などが大規模に参加。自国からの移民が多いイスラエルに対して、第1次中東戦争も含めて大規模な支援を続けていたにも関わらず、イスラエルがアメリカ側についたため反発。イディッシュ語の文学や演劇に関わる作家や詩人、演出家、俳優などの多くが逮捕、ロシア人であってもコスモポリタン的な人物は同じく逮捕。

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 1950年/昭和25年 (17〜18歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。290人が出国。

◆ レニングラード中央音楽学校 卒業。

◆ レニングラード音楽院 入学。

◆ 3月、ソ連政府、通貨の基準をドルから金に変更。

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 1951年/昭和26年 (18〜19歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。196人が出国。

◆ レニングラード音楽院 在学。

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 1952年/昭和27年 (19〜20歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。74人が出国。

◆ レニングラード音楽院 在学。

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 1953年/昭和28年 (20〜21歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。45人が出国。

◆ レニングラード音楽院 在学。

◆ 3月5日、スターリン死去。

◆ 3月、マレンコフがソ連最高指導者に選出。

◆ 6月、東ベルリンで反ソ連暴動。

◆ 7月、ジューコフ元帥が戦車部隊2個師団を率いて国家保安省本部を占拠、ベリヤとカガノーヴィチを逮捕。

◆ 9月、ソ連最高指導者、マレンコフからフルシチョフに交代。

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 1954年/昭和29年 (21〜22歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。30人が出国。

◆ レニングラード音楽院 卒業。

◆ カレリア交響楽団 首席指揮者 就任。カレリア・フィルハーモニー協会傘下のオーケストラ。本拠地はロシア北西部、カレリア共和国のペトロザヴォーツク。同地はピョートル大帝の意向で1703年に建設された都市で、レニングラードの北東約300kmに位置。

◆ 2月19日、フルシチョフの独断により、ロシアとウクライナの友好を記念するものという名目でクリミア自治州の領有を、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国から、ウクライナ・ソヴィエト連邦社会主義共和国に変更。

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 1955年/昭和30年 (22〜23歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。139人が出国。

◆ カレリア交響楽団 首席指揮者。

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 1956年/昭和31年 (23〜24歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。470人が出国。

◆ カレリア交響楽団 首席指揮者 退任。

◆ サラトフ交響楽団 首席指揮者 就任。サラトフはレニングラードの南東約1,400kmに位置する古都。

◆ サラトフ音楽院教授 就任。サラトフ音楽院管弦楽団も指揮。

◆ 2月、フルシチョフ、スターリン批判演説。

◆ 10〜11月、第2次中東戦争。スエズ運河国有化を発表したエジプトに対して怒った英仏がイスラエルと共にエジプトと戦いイスラエル側が勝利。これによりイスラエルは、スエズ運河帯域とシナイ半島を占領。


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 1957年/昭和32年 (24〜25歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。1,324人が出国。

◆ サラトフ交響楽団 首席指揮者 退任。

◆ サラトフ音楽院教授 退任。

◆ サラトフ音楽院管弦楽団を指揮して全国青少年フェスティヴァルで優勝。

◆ ヤロスラヴリ交響楽団 首席指揮者 就任。ヤロスラヴリはレニングラードの南東約600km、モスクワの北東約250kmに位置する古都。

◆ 8月、ソ連のR-7が発射に成功。世界初の大陸間弾道弾(ICBM)。

◆ 10月、ソ連のスプートニク1号が地球軌道に乗り人工衛星に。世界初。

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 1958年/昭和33年 (25〜26歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。729人が出国。

◆ ヤロスラヴリ交響楽団 首席指揮者。

◆ 3月、ブルガーニン首相辞任、フルシチョフ独裁体制確立。

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 1959年/昭和34年 (26〜27歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。1,362人が出国。

◆ ヤロスラヴリ交響楽団 首席指揮者。

◆ 1月、キューバ革命。

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 1960年/昭和35年 (27〜28歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。1.923人が出国。

◆ ヤロスラヴリ交響楽団 首席指揮者。

◆ 5月、ソ連領土内深くに侵入していたアメリカ軍のU2型高高度偵察機が、地対空ミサイルS-75によって撃墜。

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 1961年/昭和36年 (28〜29歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。224人が出国。

◆ ヤロスラヴリ交響楽団 首席指揮者。

◆ 4月、ケネディ大統領がキューバ爆撃を指示、上陸作戦まで実施するものの失敗

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 1962年/昭和37年 (29〜30歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。194人が出国。

◆ ヤロスラヴリ交響楽団 首席指揮者。

◆ 佐藤陽子[1949-2022]と共演。


◆ 10月、キューバ危機。

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 1963年/昭和38年 (30〜31歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。314人が出国。

◆ ヤロスラヴリ交響楽団 首席指揮者。

◆ 2月、レニングラード・フィルハーモニー・アカデミー交響楽団。ギレリス。モーツァルト「パリ」、プーランク:ピアノ協奏曲、ショパン:ピアノ協奏曲第1番。

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 1964年/昭和39年 (31〜32歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。541人が出国。

◆ ヤロスラヴリ交響楽団 首席指揮者 退任。

◆ 11月6日、サムイル・サモスード[1884-1964]死去。ショスタコーヴィチ「鼻」「ムツェンスク郡のマクベス夫人」「レニングラード」の初演者としても知られるサモスードはオペラ指揮者として実績豊富で、全ソ連放送オペラ交響楽団の創設に携わり、首席指揮者として7年間指揮。

◆ 全ソ連放送オペラ交響楽団 首席指揮者 就任。サモスードの後任。ちなみにサモスードは1953年から1957年まで新設モスクワ・フィルの首席指揮者を務めており、その後任が、アーロノヴィチの長年の師でもあるナタン・ラフリンでした。

◆ 10月、ブレジネフが最高指導者に選出。

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 1965年/昭和40年 (32〜33歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。895人が出国。

◆ 全ソ連放送オペラ交響楽団 首席指揮者。

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 1966年/昭和41年 (33〜34歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。2,054人が出国。

◆ 全ソ連放送オペラ交響楽団 首席指揮者。

◆ 東ドイツ・ツアー。

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 1967年/昭和42年 (34〜35歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。1,403人が出国。

◆ 全ソ連放送オペラ交響楽団 首席指揮者。

◆ 6月、第3次中東戦争。イスラエルとアラブ諸国(アラブ連合共和国、シリア、イラク、ヨルダン)が戦いイスラエルが勝利。これによりイスラエルは、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区、シナイ半島(エジプト領)、ゴラン高原(シリア領)を占領。

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 1968年/昭和43年 (35〜36歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。224人が出国。

◆ 全ソ連放送オペラ交響楽団 首席指揮者。

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 1969年/昭和44年 (36〜37歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。3,019人が出国。

◆ 全ソ連放送オペラ交響楽団 首席指揮者。

◆ 3月、レニングラード・フィル。フランク:交響曲、ベルリオーズ「ファウストの劫罰」抜粋、ラヴェル「ダフニスとクロエ」第2組曲、他。

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 1970年/昭和45年 (37〜38歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住。992人が出国。

◆ 全ソ連放送オペラ交響楽団 首席指揮者。

◆ 2月、レニングラード・フィルハーモニー・アカデミー交響楽団。カステルスキー。フレンニコフ:交響曲第2番、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番。

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 1971年/昭和46年 (38〜39歳)

◆ KGBからの提案により、ユダヤ人のイスラエル大規模移住をソ連政治局が許可。この年、12,839人が出国。

◆ 11月、イスラエルへの出国ビザを申請。

◆ 全ソ連放送オペラ交響楽団 首席指揮者を辞任。後任はマキシム・ショスタコーヴィチ[1938- ]。

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 1972年/昭和47年 (39〜40歳)

◆ ソ連ユダヤ人の大規模イスラエル移住継続。31,652人が出国。

◆ 3月2日、ソ連を出国(通常の移民手続きなので「亡命」ではありません)。

◆ 4月、イスラエル、ハイファに到着。

◆ 5月、ニクソン大統領がソ連を訪問。

◆ 11月、ヘルシンキ・フィル。スクリャービン「神聖な詩」。

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 1973年/昭和48年 (40〜41歳)

◆ ソ連ユダヤ人の大規模イスラエル移住継続。33,477人が出国。

◆ 1月、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団。

◆ 10月、第4次中東戦争。イスラエルとアラブ諸国(エジプト、シリア、イラク、ヨルダン)が戦いイスラエルが勝利。これによりアラブの産油国が、イスラエル支持国への禁輸措置を決定し、さらに原油価格を2倍以上に引き上げたため、第1次オイルショックが発生。

◆ 11月、ニューヨーク・フィル。スペイン・ポルトガル・ツアー。モーツァルト「プラハ」、ストラヴィンスキー「火の鳥」組曲、ショスタコーヴィチ5番、チェイコフスキー4番、他。

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 1974年/昭和49年 (41〜42歳)

◆ ソ連ユダヤ人の大規模イスラエル移住継続。16,816人が出国。

◆ ケルン歌劇場。ヴェルディ「オテロ」。

◆ 6月、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団が、ギュンター・ヴァントの後任としてアーロノヴィチを指名。

◆ バイエルン放送交響楽団。

◆ スペイン国立放送交響楽団。チャイコフスキー「フランチェスカ・ダ・リミニ」、「悲愴」。

◆ 7月、デトロイト交響楽団。
◆ 11月、コヴェント・ガーデン王立歌劇場。ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」。

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 1975年/昭和50年 (42〜43歳)

◆ ソ連ユダヤ人の大規模イスラエル移住継続。8,531人が出国。

◆ ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団 首席指揮者 就任。

◆ 6月、ロンドン交響楽団。ポリーニ。「眠りの森の美女」、プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番。

◆ シカゴ・リリック・オペラ。ベートーヴェン「フィデリオ」。

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 1976年/昭和51年 (43〜44歳)

◆ ソ連ユダヤ人の大規模イスラエル移住継続。7,279人が出国。

◆ ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団 首席指揮者。

◆ 6月、ミュンヘン・フィル。ブルックナー7番、ベルク:初期の7つの歌。

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 1977年/昭和52年 (44〜45歳)

◆ ソ連ユダヤ人の大規模イスラエル移住継続。8,348人が出国。

◆ ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団 首席指揮者。

◆ 7月、バイエルン州立歌劇場。チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」。

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 1978年/昭和53年 (45〜46歳)

◆ ソ連ユダヤ人の大規模イスラエル移住継続。12,192人が出国。

◆ ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団 首席指揮者。

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 1979年/昭和54年 (46〜47歳)

◆ ソ連ユダヤ人の大規模イスラエル移住継続。17,614人が出国。

◆ ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団 首席指揮者。

◆ 12月、読売日本交響楽団。ベートーヴェン9番。

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 1980年/昭和55年 (47〜48歳)

◆ ソ連ユダヤ人の大規模イスラエル移住継続。7,570人が出国。

◆ ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団 首席指揮者。

◆ トリノ王立劇場。チャイコフスキー「イオランタ」、ラフマニノフ「アレコ」。

◆ ウィーン交響楽団。ブルックナー:テ・デウム、他。

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 1981年/昭和56年 (48〜49歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住、1,770人が出国。

◆ ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団 首席指揮者。

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 1982年/昭和57年 (49〜50歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住、782人が出国。

◆ ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団 首席指揮者。

◆ ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団 首席指揮者 就任。

◆ エルサレム交響楽団。

◆ バイエルン放送交響楽団。

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 1983年/昭和58年 (50〜51歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住、399人が出国。

◆ ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団 首席指揮者。

◆ ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団 首席指揮者。

◆ フランクフルト放送交響楽団

◆ トリノ王立劇場。チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」、プッチーニ「蝶々夫人」。

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 1984年/昭和59年 (51〜52歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住、367人が出国。

◆ ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団 首席指揮者。

◆ ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団 首席指揮者。

◆ スウェーデン王立音楽アカデミーの会員に選出。

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 1985年/昭和60年 (52〜53歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住、362人が出国。

◆ ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団 首席指揮者。

◆ ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団 首席指揮者。

◆ ウィーン交響楽団。

◆ スウェーデン王立音楽アカデミー会員。

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 1986年/昭和61年 (53〜54歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住、202人が出国。

◆ ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団 首席指揮者 退任。

◆ ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団 首席指揮者。

◆ スウェーデン王立音楽アカデミー会員。

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 1987年/昭和62年 (54〜55歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住、2,096人が出国。

◆ ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団 首席指揮者 退任。

◆ スウェーデン王立音楽アカデミー会員。

◆ 8月、ロンドン交響楽団。フロリダ国際音楽祭。

◆ スウェーデン国王より北極星勲章(コマンダー)を授与。スウェーデン音楽界への顕著な貢献が称えられたもので、北極星勲章の外国人指揮者への叙勲はこれが最初。

◆ ローザ・エッティンガー賞受賞。イスラエルの音楽生活への貢献が称えられたもの。
◆ トリノ王立劇場。プッチーニ「トスカ」。

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 1988年/昭和63年 (55〜56歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル移住、2,283人が出国。

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 1989年/昭和64年/平成元年 (56〜57歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル大規模移住再開。12,932人が出国。

◆ フランクフルト歌劇場管弦楽団

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 1990年/平成2年 (57〜58歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル大規模移住継続。185,277人が出国。

◆ トリノ王立劇場。プッチーニ「トゥーランドット」。

◆ バイエルン州放送交響楽団。

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 1991年/平成3年 (58〜59歳)

◆ ソ連ユダヤ人のイスラエル大規模移住継続。147,839人が出国。

◆ トリノ王立劇場。ザンドナイ「フランチェスカ・ダ・リミニ」。

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 1992年/平成4年 (59〜60歳)

◆ ロシア、ウクライナ等ユダヤ人のイスラエル大規模移住継続。65,093人が出国。

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 1993年/平成5年 (60〜61歳)

◆ ロシア、ウクライナ等ユダヤ人のイスラエル大規模移住継続。66,145人が出国。

◆ アレーナ・ディ・ヴェローナ。マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」。

◆ シュトゥットガルト放送交響楽団。

◆ チューリヒ・トーンハレ管弦楽団。

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 1994年/平成6年 (61〜62歳)

◆ ロシア、ウクライナ等ユダヤ人のイスラエル大規模移住継続。68,079人が出国。

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 1995年/平成7年 (62〜63歳)

◆ ロシア、ウクライナ等ユダヤ人のイスラエル大規模移住継続。64,848人が出国。

◆ 7月、ロンドン交響楽団。

◆ 8月、ロンドン交響楽団。フロリダ国際音楽祭。

◆ ローマ歌劇場。リムスキー=コルサコフ「金鶏」。

◆ スイス・イタリア語放送管弦楽団。

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 1996年/平成8年 (63〜64歳)

◆ ロシア、ウクライナ等ユダヤ人のイスラエル大規模移住継続。59,048人が出国。

◆ ローマ歌劇場。プッチーニ「トゥーランドット」。

◆ 南西ドイツ放送交響楽団

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 1997年/平成9年 (64〜65歳)

◆ ロシア、ウクライナ等ユダヤ人のイスラエル大規模移住継続。54,621人が出国。

◆ バイエルン放送交響楽団。

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 1998年/平成10年 (65〜66歳)

◆ ロシア、ウクライナ等ユダヤ人のイスラエル大規模移住継続。46,032人が出国。

◆ 4月、パリ管弦楽団。

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 1999年/平成11年 (66〜67歳)

◆ ロシア、ウクライナ等ユダヤ人のイスラエル大規模移住継続。66,848人が出国。

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 2000年/平成12年 (67〜68歳)

◆ ロシア、ウクライナ等ユダヤ人のイスラエル大規模移住継続。50,817人が出国。

◆ ヴェネツィア・フェニーチェ劇場。プッチーニ「マノン・レスコー」。オーケストラ・コンサート。

◆ エルサレム交響楽団。イスラエル独立記念日演奏会。イスラエルでの指揮はこれが最後。

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 2001年/平成13年 (68〜69歳)

◆ ロシア、ウクライナ等ユダヤ人のイスラエル大規模移住継続。33,601人が出国。

◆ トリノ王立劇場。レオンカヴァッロ「道化師」、ツェムリンスキー「こびと」。

◆ ヴェネツィア・フェニーチェ劇場。プッチーニ「蝶々夫人」。

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 2002年/平成14年 (69〜70歳)

◆ ロシア、ウクライナ等ユダヤ人のイスラエル大規模移住継続。18,508人が出国。

◆ 6月、ウィーン交響楽団。ブッフビンダー。ショスタコーヴィチ1番、ガーシュウィン:ピアノ協奏曲。ストラヴィンスキー「火の鳥」組曲。

◆ 10月、パリ管弦楽団。

◆ 10月31日、ケルンで死去。

◆ エルサレムのギヴァット・シャウル墓地に埋葬。

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【バロック作曲家(生年順)】

バード [c.1540-1623]
カッツァーティ [1616-1678]
ルイ・クープラン [1626-1661]
クープラン一族
ダンドリュー [1682-1738]
スタンリー [1713-1786]
【古典派&ロマン派作曲家(生年順)】

モンジュルー [1764-1836] (ピアノ系)
ベートーヴェン [1770-1827]
ジャダン [1776-1800] (ピアノ系)
リース [1784-1838]
ブルックナー [1824-1896]
ルクー [1870-1894]
レーガー [1873-1916]

ラフマニノフ [1873-1943]

【近現代作曲家(生年順)】

レーバイ [1880-1953] (ギター系)
マルティヌー [1890-1959]
ミゴ [1891-1976] (ギター系も)
ショスタコーヴィチ [1906-1975]
ラングレー [1907-1991] (オルガン系)
アンダーソン [1908-1975]
デュアルテ [1919-2004] (ギター系)
プレスティ [1924-1967] (ギター系)
ヘンツェ [1926-2012]
坂本龍一 [1952-2023]
【指揮者(ドイツ・オーストリア)】

アーベントロート (ベートーヴェンシューマンブルックナーブラームスモーツァルトチャイコハイドン)
エッシェンバッハ
カラヤン
クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィルベルリン・フィルミュンヘン・フィル国立歌劇場管レジェンダリー)
クラウス
クリップス
クレンペラー (VOX&ライヴザルツブルク・ライヴVENIASボックス
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー (ドヴォルザークレジェンダリー)
フリート
フルトヴェングラー
ベーム
ヘルビヒ(マーラーショスタコブラームス)
メルツェンドルファー
ヤノフスキー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー (ブルックナーマーラーヨーロッパドイツ)
ロスバウト
【指揮者(ロシア・ソ連)】

ガウク
クーセヴィツキー
ゴロワノフ
ペトレンコ
マルケヴィチ
【指揮者(アメリカ)】

クーチャー(クチャル)
スラトキン(父)
ドラゴン
バーンスタイン
フェネル
【指揮者(オランダ)】

オッテルロー
クイケン
ベイヌム
メンゲルベルク
【指揮者(フランス)】

パレー
モントゥー
【指揮者(ハンガリー)】

セル
ドラティ
【指揮者(スペイン)】

アルヘンタ
【指揮者(スイス)】

アンセルメ
【指揮者(ポーランド)】

クレツキ
【指揮者(チェコ)】

ターリヒ
【指揮者(ルーマニア)】

チェリビダッケ
【指揮者(イタリア)】

トスカニーニ
【指揮者(イギリス)】

バルビローリ
【指揮者(ギリシャ)】

ミトロプーロス
【鍵盤楽器奏者(楽器別・生国別)】

【ピアノ(ロシア・ソ連)】

ヴェデルニコフ
グリンベルク
ソフロニツキー
タマルキナ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
フェインベルク
フリエール
モイセイヴィチ
ユージナ
【ピアノ(フランス)】

ウーセ
カサドシュ
ティッサン=ヴァランタン
ハスキル
ロン
【ピアノ(ドイツ・オーストリア)】

キルシュネライト
シュナーベル
デムス
ナイ
【ピアノ(南米)】

タリアフェロ
ノヴァエス
【チェンバロ】

ヴァレンティ
カークパトリック
ランドフスカ
【弦楽器奏者(楽器別・五十音順)】

【ヴァイオリン】

オイストラフ
コーガン
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヘムシング
リッチ
レビン
【チェロ】

カサド
シュタルケル
デュ・プレ
ヤニグロ
ロストロポーヴィチ
【管楽器奏者】

【クラリネット】

マンツ

【ファゴット】

デルヴォー(ダルティガロング)
【オーボエ】

モワネ
【歌手】

ド・ビーク (メゾソプラノ)
【室内アンサンブル(編成別・五十音順)】

【三重奏団】

パスキエ・トリオ
【ピアノ四重奏団】

フォーレ四重奏団
【弦楽四重奏団】

グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
ズスケ四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
フランスの伝説の弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

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