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- The Art of Hans Rosbaud (54CD)
Item Details
Product Description
ハンス・ロスバウトの芸術(54CD)
バッハから20世紀作品まで幅広い音楽で優れた演奏を聴かせたオーストリア人指揮者、ハンス・ロスバウトの音源を大量に集めた大規模なセット。古典派、ロマン派、モダンというロスバウトの3本大きな柱を幅広い作品で楽しむことができます。モノラル録音が大半ですが、放送音源が殆どということもあり聴きやすい水準にあります。
【芸風】
高度な楽曲分析力と指揮技術により、どんなに厄介な現代作品でもすぐにモノにできたロスバウトは、ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語、ラテン語、ギリシャ語にも通じ、博学多識で行動力にも恵まれ、優しく親切で他者への助力も惜しみませんでした。
複雑な作品もただちに解析して演奏困難なポイントを洗い出し、克服に向けてのリハーサルをすぐに具体化する腕前には凄いものがあり、指揮者としても優秀だったハンス・ヴェルナー・ヘンツェが、自作の指揮にあたって壁にぶつかったとき、ロスバウトに教えを請うたほど。
そんな具合ですから、うるさがたのシェーンベルクやストラヴィンスキーのほか、ブーレーズやペンデレツキ、シュトックハウゼン、ハルトマン、メシアン等々、多くの作曲家もロスバウトという存在を頼りにしていました。
放送というメディアが、同時代作品の紹介に非常に適したメディアであることに着目し、みずからの言葉でとっつきにくい作品も丁寧に解説、生放送オンリーの時代には、欠員の代役で歌まで歌ったり、楽器紹介番組で、適切な曲が無い場合には自分で曲を書くなどして番組を盛り上げ続けたロスバウトの功績は、まさに「開拓者」の名にふさわしいものですし、エルネスト・ブールや、ミヒャエル・ギーレンという「後継者」が現れたことにも納得の魅力的な音楽家でした。
【弟はスパイ?】
弟パウル・ヴェンツェル・ロスバウト[1896-1963]は、兄と同じく幼時から母にピアノを学びますが、すぐに科学の道を志すようになります。
第1次世界大戦が始まると徴兵されて1915年から1918年まで従軍、イギリス軍の捕虜となり、イギリス人たちと交流。帰国後、1920年にダルムシュタット工科大学で化学を学び、続いてベルリンのカイザー・ヴィルヘルム・インスティテュートなどで研究を継続、1925年には博士号を取得。1932年、科学系出版社シュプリンガーでコンサルタントを務めていましたが、ナチ政権の誕生により、ユダヤ人の妻ヒルデと娘のアンゲラの身に危険が及びそうになると、エージェントに依頼して2人をイギリスに逃します。
そのエージェントはイギリスの秘密情報部(MI6)のメンバーで、パウルにもイギリスに渡るよう薦めてきますが、ドイツのほとんどの科学者と知り合いだったパウルは、ドイツに残って軍事科学情報についてイギリスに知らせる道を選択。V2ロケットの運用計画や、オットー・ハーンの核分裂発見(といっても実際に証明したのはハーンの元同僚でユダヤ人だったために国外追放されていた天才女性学者のリーゼ・マイトナーとその甥ですが)とその原子爆弾への運用計画の失敗、ドイツの科学者のリストなどをマイクロフィルム化し、ノルウェーの情報機関の協力を得てイギリスに連絡。戦後はイギリスで科学出版社の運営にも携わり、1961年にはアメリカの物理学研究所から表彰されてもいました。
【フランクフルト放送交響楽団】
1929年10月1日、ロスバウトは、フランクフルト放送交響楽団の第1カペルマイスター(楽長)に就任。第2カペルマイスターは、5年間、同楽団の前身楽団を指揮していたラインホルト・メルテン[1894-1943]です。
フランクフルトは、高さ80メートルのプロテスタントの三王教会や、高さ90メートルのカトリックの大聖堂に象徴されるように、カトリックとプロテスタントが拮抗する街。
フランクフルト放送交響楽団は、1929年に「Frankfurter Rundfunk-Symphonie-Orchester」と命名されたオーケストラですが、活動そのものは1924年に放送用のオーケストラとして始まっています。といってもその「放送局」は、「公営」ではなく、「民間」により、ハイパーインフレ下のフランクフルトで、資本金100兆マルク(後に60,000レンテンマルクに交換)で設立された「南西ドイツ・ラジオ・クラブ」が運営していたものです。
その放送局の音楽番組で演奏していたのが、1922年にラインホルト・メルテンとヒンデミットによってフランクフルトで設立された「音楽共同体(Gemeinschaft für Musik)」に所属する音楽家たちで、室内オーケストラ規模のアンサンブルをメルテンが指揮していました。
その後、「南西ドイツ・ラジオ・クラブ」は規模を拡大して「南西ドイツ放送」と名を変え、1929年には、「音楽共同体」所属の音楽家たちなどにより、常設オーケストラ「フランクフルト放送交響楽団」を設立しています。
ちなみにここでの「南西ドイツ放送(SWD: Südwestdeutsche Rundfunk)」は、のちにロスバウトと深く関わる「南西ドイツ放送(SWF: Südwestfunk)」とは無関係です。両者の名前は元のドイツ語では明確に異なりますが、日本語では後者を長年にわたって、「南西ドイツ放送」と意訳(?)してきたため紛らわしくなっています。逐語訳では後者は単に「南西無線」「南西放送」「南西ラジオ」といったものになり、それではわかりにくいことも確かなのですが。
ということで、ややこしいですが、当時のフランクフルト放送交響楽団は、当時の放送組織である「南西ドイツ放送」の番組で演奏するためのオーケストラということになります。
なお、この楽団は何度も名前が変更されているので、以下にまとめておきます。
1929 民間放送局「南西ドイツ放送」の楽団として発足
Frankfurter Rundfunk-Symphonie-Orchester(フランクフルト放送交響楽団)
1934 民間放送局の国有化に伴う名称変更
Orchester des Reichssenders Frankfurt(フランクフルト帝国放送管弦楽団)
1945 終戦による一時的な名称変更
Oberhessische Symphonie-Orchester(オーバーヘッセン交響楽団)
1945 アメリカ占領軍政府による放送開始に伴う名称変更
Symphonieorchesters von Radio Frankfurt(フランクフルト放送交響楽団)
1950 アメリカ占領軍政府による統治終了に伴う名称変更
Sinfonie-Orchester des Hessischen Rundfunks(ヘッセン放送交響楽団)
1971 演奏会やツアーの増加に伴う名称変更
Radio Sinfonieorchester Frankfurt(フランクフルト放送交響楽団)
2005 放送組織改組による名称変更
hr-Sinfonieorchester(hr交響楽団)
2015 海外向け名称の追加
Frankfurt Radio Symphony(フランクフルト放送交響楽団)
また、ロスバウトは、フランクフルト放送交響楽団の放送番組で、工夫を凝らして実績を積み重ねていきます。下記のような感じです。
番組の基本スタイル
作品や楽器の解説などトークも交えるもので、20世紀作品を効果的に放送するための取り組みとも言えます。これはロスバウトがマインツ交響楽団指揮者時代の演奏会で、20世紀作品が引き起こした聴衆の数々の騒動から考え付いた方法でもありました。
ゲスト解説者
アドルノ[1903-1969]や、音楽学者のカール・ガイリンガー[1899-1989]、パウル・ピスク[1893-1990]、マンフレート・ブーコフツァー[1910-1955]なども登場する本格的なものでした。
レパートリー
通常のオーケストラ音楽、現代音楽、室内楽、オペラ、オペレッタに加え、軽音楽、映画音楽なども取り上げて、訴求力をアップしていました。
ロスバウト作曲
楽器の解説番組では、楽器の紹介に適した曲が見つからない場合、急遽ロスバウトが作曲して番組に間に合わせるということもありました。ロスバウト自作の「3本のファゴットのためのフゲッタ」や「バス・チューバのためのコンツェルトシュテュック」などはそうした背景を持つ作品です。
臨機応変
当時の放送番組は「生放送」ということで、出演者の遅刻やキャンセルは深刻な事態を招きましたが、ときには、ロスバウトがテノール歌手の代役を務めて危機を回避したこともありました。
定期演奏会
放送番組での地道な努力の積み重ねが、フランクフルト放送交響楽団の通常の演奏会活動である「フランクフルト・オーケストラ協会」の年12回の定期演奏会(各2回で年間24公演)での集客にも役立つようになり、指揮者・教育者・企画者でもあったロスバウトの優れた能力が活かされることとなります。また、1回2公演の定期演奏会に対してリハーサルは基本的に10回と万全を期しており、当時の演奏技術では困難もあった20世紀作品を高いレヴェルで仕上げていました。
【ミュンスター市音楽総監督】
1937年7月1日、ロスバウトは、ドイツ北西部ヴェストファーレン州のミュンスター市音楽総監督に就任。年報は18,000マルク。「北のローマ」とも呼ばれるカトリックの強い街でもあるミュンスターでは、ナチズムの浸透も遅く、フランクフルト帝国放送でナチ賛同者たちの横暴に辟易していたカトリック教徒のロスバウトには願ってもない環境でした。ここでロスバウトは、市の関わるコンサートに対する責任を持ち、オーケストラ演奏会や室内コンサート、オペラ、オラトリオの演奏でも活躍。3年の契約でしたが4年間在任。
コンサート
通常のシンフォニック・レパートリーのほか、ナチ政権下ながら、ブゾーニ、マリピエロ、ラヴェルといった作曲家の作品も紹介して、ロスバウトらしさを見せていました。
オペラ
ミュンスター歌劇場の総監督、エーリヒ・パープスト[1890-1955]は俳優で演出家という人物でしたがロスバウトを称賛しており、オランダへの引っ越し公演も実現させるなど、総監督と音楽監督の関係は良好だったものと考えられます。ヒット作のR.シュトラウス『ばらの騎士』から新作ヴォルフ=フェラーリ『愚かな女』、R.シュトラウス『ダフネ』など、さまざまなオペラを上演していました。
宗教音楽
ロスバウトはミュンスターに着任してから宗教音楽も取り上げるようになります。フランクフルトでは放送の仕事がメインだったこともあって、宗教音楽はあまり指揮していませんでしたが、ミュンスターはカトリックの街で、さらにミュンスター教会にクレメンス・アウグスト・フォン・ガーレン司教[1878-1946]という人物がいたこともあってか、ロスバウトはオラトリオなどを取り上げています。
ちなみにガーレン司教は、ナチス・ドイツ政府の定めた精神疾患患者や遺伝性疾患患者に対する「T4作戦(安楽死政策)」を公に批判した人物としても有名。T4作戦の犠牲者には、作曲家シュトックハウゼン(のちにロスバウトと交流)の母親、ゲルトルート[1900-1941]もいました。
【シュトラースブルク歌劇場&市立管弦楽団】
1941年の夏、ロスバウト、シュトラースブルク歌劇場の総監督インゴルフ・クンツェ[1890-1952]から、音楽監督になるようたびたび要請されて承諾。クンツェはドイツの俳優・演出家。
「エルザス=ロートリンゲン」に属するシュトラースブルク(ストラスブール)は、パリから約400キロ、バーデン=バーデンからは約40キロの地点にあり、ドイツ領だったりフランス領だったりで歴史的に安定しない地域。近代以降で見ても以下のような感じです。
・1871-1918:独(47年間)
・1918-1940:仏(22年間)
・1940-1944:独(4年間)
・1944-現在:仏
1941年8月1日、ロスバウト、シュトラースブルク歌劇場の音楽監督と、同歌劇場のオーケストラの演奏会時の団体であるシュトラースブルク市立管弦楽団(のちのストラスブール・フィル)の音楽監督に就任(1944年まで)。
ロスバウトが着任した1941年は、シュトラースブルクが22年ぶりにドイツ領に戻った翌年という時期で、すでに「バーデン=エルザス大管区」の中心都市として位置づけられています。高さ142メートルの壮大なストラスブール大聖堂で知られるこの街は、カトリックの勢力が強く、また、バーデン一帯や南ドイツは、ドイツの中でもカトリックの優勢な地域でもありました。
ちなみにシュトラースブルク歌劇場の代々の音楽監督は、ドイツ時代には、ハンス・プフィッツナー、オットー・クレンペラー、ジョージ・セルと、ドイツ・オーストリア系の有名どころが歴任しています。
なお、音楽監督に着任したロスバウトに対し、ドイツ同化策の一環として、政府はさまざまなことを要請してきます。ロスバウトの対応は、以下のようなものでした。
楽員
フランス人楽員を解雇して、ドイツ人楽員を雇用せよという指示でしたが、ロスバウトはこれを拒否してドイツ人の楽員については5人に留めています。
言語
政府によりフランス語の使用は禁じられていましたが、ロスバウトは敢えてフランス語でもリハーサルをおこなっていました。被占領側の気持ちに配慮したものと考えられます。
プログラム
政府によるドイツ同化策の一環として、伝統的なドイツ音楽によるプログラム構成が基準とされ、演奏予定曲目リストに入っていたヴェーベルンなどは、実際の演奏会では差し替えられるなどしていました。ロスバウトは、旧知の作曲家や地元シュトラースブルクの作曲家に委嘱するなどして、なるべく現代作品をプログラムに組み込み、フリッツ・アダムの管弦楽のための協奏曲、レオ・カウフマンのオペラや交響曲に加え、ハラルト・ゲンツマー、ハンス・フランク、ヨハン・ネポムク・ダーフィトの作品などを取り上げて成功も収めていました。
徴兵
エルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)は「バーデン=エルザス大管区」に組み込まれたため、他のドイツ・オーストリアの地域と同じく徴兵もおこなわれ、約10万人が兵役に就いています。ロスバウトはシュトラースブルク歌劇場の楽員・職員たちを徴兵除外とするよう嘆願書を提出したほか、大管区指導者代理人に直接働きかけるなどし、劇場で上演が行われている限りは徴兵猶予という約束を取り付け、ロスバウトの在任中は平穏な環境が維持されました。
【ミュンヘン帝国放送管弦楽団】
1944年10月1日、ロスバウトは、ミュンヘン帝国放送管弦楽団の指揮者に就任。ミュンヘン帝国放送は7月にアメリカ軍に爆撃されて大きな被害を受けており、一時的にバイロイトに局を移転(1945年4月1日まで)。
同局所属のミュンヘン帝国放送管弦楽団は、戦争末期ということでさまざまなオーケストラの楽員を集めた寄合所帯でしたが、中にはロスバウトが招いたシュトラースブルクのアルザス人楽員たちも含まれていました。
なお、ミュンヘン帝国放送は、戦後、バイエルン放送と名前を変えているので、このミュンヘン帝国放送所属の最大のオーケストラも、1949年に創設されるバイエルン放送交響楽団の前身と見ることができます。実際、この時期に録音された音源がVOXレーベルなどから登場した時には、バイエルン放送交響楽団と記載されてもいました。
【ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団】
1945年、アメリカの軍政府では主な占領区域であるバイエルン州とヘッセン州の文化再建を進めており、オーケストラやオペラでも、軸となる指揮者を探していました。
ミュンヘンでは、バイエルン国立歌劇場とミュンヘン・フィルがまず目立つ再建対象でしたが、有名な指揮者の多くは、ブラックリストに登録済みだったため、ミュンヘン音楽支部のスタッフは人選に苦慮。
そこへクナッパーツブッシュがロスバウトを推薦してきたので、調査を開始。多少のナチへの迎合はあったものの時局を考慮すれば問題ないというような結論でしたが、当時すでにロスバウトはシュトゥットガルト市に対して野心的な提案を含めた交渉をおこなっている最中で、その内容を評価した軍政府のヴュルッテンベルク=バーデン音楽支部は役所に契約を薦めるものの、役所側は躊躇している状態でした。その間にロスバウトと素早く契約したのがミュンヘン音楽支部ということになります。
11月29日、ロスバウトはミュンヘン市の音楽総監督として、市の運営するミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任。ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ヒンデミットの友人で、膨大なレパートリーを持つロスバウトは、新旧・各国さまざまな音楽にも精通しており、瓦礫だらけの市民生活に、面白い刺激をもたらしてくれるという、新たな時代にふさわしい能力の持ち主でもありました。
ちなみに、現代音楽に否定的なクナッパーツブッシュがロスバウトを推薦した理由としては、自分と全く競合しないスタイルの音楽家で、通常レパートリーでの実力も十分に高いといった2つの理由が考えられます。他の要因としては、ミュンヘン・フィルの前任者で熱烈なナチ党員のカバスタが、終戦後すぐに失脚して体も壊し、入院先からクナッパーツブッシュ宛に、ミュンヘン・フィルに復職できるよう取り成して欲しいという手紙を送ってきており、自身も裁判待ちというクナッパーツブッシュにはそれが厄介だったということもあったかもしれません。カバスタは翌年2月に自殺しています。
ミュンヘンは市街地の40%、中心部については実に70%が連合軍の爆撃によって破壊されており、ロスバウトが着任した時期は冬だったこともあって電気や石炭の不足も深刻でした。そんな中、ミュンヘン大学工学部の窓ガラスの割れた寒く暗い講堂で3回開催されたベートーヴェン連続演奏会(第九のみ5回)には、音楽に飢えていた聴衆が長時間並んでチケットを入手して訪れ、大成功を収めています。翌シーズンにはブルックナーの連続演奏会をおこなっていますがこれは4回おこなわれています。
まず伝統的なレパートリーで成功を収めたロスバウトですが、得意の現代作品にも並行して取り組み、楽譜の調達環境など整わない中にあって、国際的なプログラム構成を目指し、ショスタコーヴィチのほか、サミュエル・バーバー、アーロン・コープランド、ウォルター・ピストン、ロジャー・セッションズ、ウィリアム・シューマンなどのアメリカの作曲家や、ヴェルナー・フッサン、ヨゼフ・ハース、ヴォルフガング・ヤコビ、エルンスト・シフマン、ハインリヒ・シュミットといったドイツ系もとりあげています。
1948年になると、ロスバウトはミュンヘン市音楽総監督とミュンヘン・フィル首席指揮者を実質2年と少しで辞任。南西ドイツ放送の仕事が決まったことに加え、ミュンヘン市側の方針が、伝統的なレパートリー重視という方向で決まったという事情もありました。
後任として、ミュンヘン市は、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、ヨッフムと交渉しますが全員から断られ、翌年、元ナチ党員のフリッツ・リーガー[1910-1978]が着任しています。
リーガーはミュンヘン市側の伝統重視の環境と相性が良かったのか17年間も首席指揮者を務めています。ロスバウトの前任のカバスタも、リーガーと同じくナチ党員で6年間務め、その前のハウゼッガーも熱烈なナチ賛美者で18年間在任、その前のプフィッツナーは反ユダヤ主義者として有名でした。
驚くべき人選ですが、ミュンヘンといえばナチ党発祥の地でもありますし、ナチがエンブレムまで真似したとされる反ユダヤ主義秘密結社「トゥーレ協会」の本拠地でもあったので、当時はまだまだそうした風土が残っていたのかもしれません。
【エクサン・プロヴァンス音楽祭】
エクサン・プロヴァンス音楽祭は、フランスの劇場人ガブリエル・デュシュルジェ[1904-1996]が、リリー・パストレ伯爵夫人やカジノ支配人ロジェ・ビゴネらの協力を得て1948年に、南仏、マルセイユ近郊のエクサン・プロヴァンスで設立したフェスティヴァル。
デュシュルジェは、モーツァルト音楽祭として成功していた「グラインドボーン音楽祭」や「ザルツブルク音楽祭」に倣い、「エクサン・プロヴァンス音楽祭」が、まずフランスのモーツァルト音楽祭として認知されるべきだと考え、友人の指揮者、エルネスト・ブールから、ハンス・ロスバウトを紹介されます。
ブールは若い頃にストラスブールの放送オーケストラの指揮者を務めていたことがあり、同地がドイツに割譲されシュトラースブルクになった際、歌劇場とオーケストラの音楽監督としてロスバウトが活躍していたため、その指揮ぶりについてはよく知っていたということが背景にあります。
ブールの推薦を受けてデュシュルジェから音楽監督への就任を要請されたロスバウトは快諾し、初年度の『コジ・ファン・トゥッテ』を無事に指揮します。もっとも、この『コジ・ファン・トゥッテ』の上演に際しては、肝心の出演者がまだ決まっていないという状態だったので、歌手を急遽スカラ座から手配して間に合わせていました。
企画立案が得意だったロスバウトは、翌1949年からは音楽祭の公演構成やプログラム構成についても深く関わり、オペラやシンフォニー・コンサートのほか、室内楽、宗教音楽など多彩な内容を実現、やがて南仏名物の夏の音楽祭となっていきます。
ちなみに1949年にはロスバウトは『ドン・ジョヴァンニ』を指揮して大きな評判となっていますが、この時のオーケストラには、ロスバウトが首席指揮者に就任して間もない南西ドイツ放送交響楽団が起用されたことも話題となっていました。何しろこれが第2次大戦後、フランスで演奏した最初のドイツのオーケストラということでもあったので。
以後、ロスバウトは、デュシュルジェがパリ・オペラ座兼務となる1958年までの11年間に渡って同音楽祭の音楽監督を務め、モーツァルトのオペラをメインに、バッハやハイドン、ヨハン・シュトラウスから、バルトーク、ストラヴィンスキー、ヘンツェなど非常に幅広いプログラムで指揮者や室内楽ピアニスト、伴奏ピアニストとしても活躍。主な公演は以下のような感じでした。
1948
●モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』
1949
●モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』
1950
●モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』
●モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』
1951
●モーツァルト『後宮からの誘拐』
1952
●モーツァルト『フィガロの結婚』
●モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』
1953
●バルト―ク:2台ピアノと打楽器のためのソナタ(第2ピアノ:ロスバウト)
●モーツァルト『フィガロの結婚』
●モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』
1954
●モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』
●モーツァルト『後宮からの誘拐』
1955
●モーツァルト『フィガロの結婚』
●モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』
●ボリス・クリストフ・リサイタル(ピアノ:ロスバウト)
1956
●モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』
●ラモー:『プラテー』
●テレサ・シュティヒ=ランダル・リサイタル(ピアノ:ロスバウト)
1957
●モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』
●モーツァルト『フィガロの結婚』
1958
●モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』
【南西ドイツ放送交響楽団】
1948年10月1日、ロスバウト、南西ドイツ放送交響楽団の首席指揮者に就任。友人のハインリヒ・シュトローベルが、南西ドイツ放送の音楽部門長だったことで実現した人事ですが、バーデン=バーデンはフランス軍政府の統治する地区ということも重要でした。
ロスバウトはフランス語やフランス音楽、フランス文化に通じており、戦時中にはアルザスのシュトラースブルク歌劇場でフランス人に配慮した仕事をしたことで、楽員や聴衆からの評判も良かったという実績もあります。
ロスバウトはこのオーケストラ、および放送組織と相性が良く、亡くなるまで首席指揮者として仕事を続けていますが、後任がアルザス生まれのエルネスト・ブール[1913-2001]というのも象徴的でした。しかもブールも現代音楽路線です。
楽団名
ロスバウトの存命中は、楽団名は一貫して"Großes Orchester des Südwestfunks"でしたが、フランス軍政府による統治地区であったことや、契約レコード会社にアメリカのレーベルがあったことなどから、かなりの数の名称アレンジがおこなわれています。以下に代表的な例を挙げておきます。
なお、ロスバウト時代の楽団名を直訳すると「南西放送大管弦楽団」となりますが、ここでは便宜上、認知度の高い「南西ドイツ放送交響楽団」で表記しています。
オリジナル
"Großes Orchester des Südwestfunks"
ドイツ語
"Sinfonieorchester des Südwestfunks Baden-Baden"
"Sinfonie Orchester des Südwestfunk Baden-Baden"
"Orchester des Südwestfunks, Baden-Baden"
"Südwestfunk-Orchester Baden-Baden"
"SWF Sinfonieorchester Baden-Baden"
"Südwestfunkorchester Baden-Baden"
"Südwestfunk-Symphonieorchester"
"Südwestdeutsches Orchester"
フランス語
"Orchestre du Südwestfunk Baden-Baden"
"Orchestre Symphonique du Südwestfunk à Baden-Baden"
英語
"Symphony Orchestra of the Southwest German Radio, Baden-Baden"
"Southwest German RadioSymphony Orchestra of Baden-Baden"
"Baden-Baden Radio Symphony Orchestra"
"SWF Symphony Orchestra Baden-Baden"
"SWF Orchestra, Baden-Baden"
なお、ドイツ語正式名称(オリジナル)の方も4回ほど変更されており、下記の通りとなります。
1946
Philharmonisches Orchester des Südwestfunks(南西ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団)
1946 フィルハーモニーから大管弦楽団に変更
Großes Orchester des Südwestfunks(南西ドイツ放送大管弦楽団)
1966 大管弦楽団から交響楽団に変更
Sinfonieorchester des Südwestfunks(南西ドイツ放送交響楽団)
1998 南ドイツ総合放送と南西ドイツ放送の統合により放送局名と地名追加
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg(バーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団)
2016 シュトゥットガルトSWR交響楽団との統合による本拠地移転のため地名削除
SWR Sinfonieorchester(SWR交響楽団)
【年表】
1895年(0歳)
●7月22日、ハンス・ロスバウト、オーストリア=ハンガリー帝国(以下、オーストリアと略)のグラーツの中心街にあるトラウンガウアー小路の家に誕生。母アンナ・アロイジア・ロスバウト[1856-1913]はピアノ教師でシングルマザー、翌年11月には弟のパウルを産んでいます。
●8月4日、ローマ・カトリック教会で洗礼。洗礼名はヨハン。
●11月16日、パウル・ヒンデミット[1895-1963]誕生。ロスバウトと親しかったヒンデミットは没年も1年違いでした。
1896年(1歳)
●11月18日、ロスバウトの弟パウル[1896-1963]誕生。洗礼名はヴェンツェル。
1900年(5歳)
●ロスバウト、母親からのピアノ・レッスン開始。母アンナはヴィルヘルム・マイヤー[1831-1898]の弟子。マイヤーは、オーストリアのピアニスト・指揮者で作曲家。作曲時の筆名は、W.A.Remy(W.Mayerのアナグラム)。マイヤーの弟子にはほかに、ブゾーニやワインガルトナーもおり、アンナも優れたピアノ教師という評判で、ロスバウトの音楽への関心を高めてレッスンに集中させ、早期に技術を高めることに成功していました。
●ロスバウトのレッスン以前の音楽の思い出は、母親の弾くピアノと、軍楽隊のリズムだったということです。
1901年(6歳) 小学校在学
●ロスバウト、グラーツの小学校(基礎学校)に入学(4年間在学)。
1905年(10歳) 小学校在学、フマニスティシェス・ギムナジウム在学
●9月、ロスバウト、グラーツのフマニスティシェス・ギムナジウムに入学(8年間在学)。同級生にはカール・ベームがいました。
在学期間中、長い夏休みを利用してグラーツ音楽院で学び、ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、ホルンの演奏技術を習得。また、ギムナジウムでは、古典と言語学、自然科学に熱中し、これらの分野への関心は生涯に渡って続くことになります。
1906年(11歳) フマニスティシェス・ギムナジウム在学
◆「豚戦争」発生。オーストリア帝国とセルビア王国のあいだに起きた関税戦争のことで、1910年まで継続。
原因は兵器の輸入先をオーストリア帝国からフランスに変更したセルビアに対して、オーストリア帝国が、報復として豚などの農産物に高率な禁止関税を適用したことでしたが、さらにセルビアがオーストリア帝国からの輸入を全面禁止し、トルコや欧州諸国、ロシアなどに貿易先を拡大、やがてドイツに大きな市場を開拓するという流れとなり、セルビアのオーストリア帝国からの経済的独立も実現、やがて、貿易関係と共に悪化した国民感情もあり、第1次世界大戦勃発を招く事件を引き起こすことに繋がって行きます。
1912年(17歳) フマニスティシェス・ギムナジウム在学
◆10月、第一次バルカン戦争勃発。オスマン帝国とバルカン同盟(セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシャ)のあいだに起きた戦い。翌年5月のロンドン条約締結により終戦。オーストリアが支援したオスマン帝国は負け、ロシアの支援したバルカン同盟が勝利を収めるものの、領土問題などで紛糾、争いが続くことになります。
1913年(18歳) フマニスティシェス・ギムナジウム在学、ホッホ音楽院在学
◆6月、第二次バルカン戦争勃発。ブルガリアと、反ブルガリア連合(オスマン帝国・セルビア・モンテネグロ・ギリシャ・ルーマニア)のあいだに起きた戦い。8月のブカレスト条約締結により終戦。今回もオーストリアが支援したブルガリアが負け、ロシアの支援した反ブルガリア連合が勝利を収めます。第1次・第2次のバルカン戦争を通じて最大の犠牲を出したブルガリアの処遇が、敗戦により無残なものとなったため、ブルガリアはオスマン帝国と接近、第1次世界大戦開戦の要因のひとつとなります。
●5月6日、ロスバウトの母親死去
●6月、ロスバウト、グラーツのフマニスティシェス・ギムナジウムを卒業。
●9月、ロスバウト、フランクフルトのホッホ音楽院に入学(現フランクフルト音楽・舞台芸術大学)。
ピアノをアルフレート・ヘーン[1887-1945]に、作曲をベルンハルト・ゼクレス[1872-1934]に師事します。
ブゾーニとダルベールの弟子だったでアルフレート・ヘーンは、1910年にサンクトペテルブルクで開催された第5回「アントン・ルビンシテイン国際ピアノ・コンクール」で、ベートーヴェンのハンマークラヴィーア・ソナタを弾いて優勝したことで知られていますが、同コンクールでベートーヴェンのソナタ第27番などを弾いて特別賞を受賞していたアルトゥール・ルービンシュタイン[1887-1982]は、後年、自分が優勝賞金2,000ルーブルを獲得できなかったのは、ユダヤ人差別が原因で、さらにニコライ2世の妻であるアレクサンドラ皇后[1872-1918]が、ヘーンのパトロンであるヘッセン大公アレクサンダー[1863-1945]の妹であったことが有利に働いたのではないかとも回想しています。
しかし現実にはヘーンは当時には珍しい技巧派で、ナチの台頭や1933年の脳梗塞さえなければもっと有名になっていたと思われる人物でした。
また、当時のロシア帝国では、直前に第2次ポグロム(ユダヤ人虐殺)[1903-1906]も発生し、ユダヤ人の移動や滞在に関する法律もあって、外国のユダヤ人であっても長期滞在は認められていなかったことから、審査に影響があったと考えられないこともありませんが、審査で主導権を握っていたのは、のちにユダヤ系ピアニストのユージナを育てる名教師エシポワですし、そもそもコンクール創設者でサンクトペテルブルク音楽院の創設者でもあるアントン・ルビンシテイン[1829-1894]がユダヤ系です。
さらに、当時のルービンシュタインは、演奏技術や解釈の未熟さの問題を次々に指摘され、演奏会契約が激減して活動が停滞、借金が膨らんで取り立てにも苦しみ、コンクールの2年前には首吊り自殺未遂騒動まで起こしていました。
ともかく、ヘーンのもとで徹底して合理的な指導を受けたロスバウトのピアノの腕前は短期間に向上し、初年度の学内リサイタルでリストの『マゼッパ』を披露するほどの水準に到達していました。ちなみに、ロスバウトは卒業後、師ヘーンのパトロンであるヘッセン大公の助手を3年間務めることになります。
作曲の師であるゼクレスは、ハイデルベルクとマインツでカペルマイスターも経験していた人物で、ヒンデミットやアドルノもその高度なスキルと温かい人柄を称賛しています。しかしユダヤ系だったため、政府からの要請で1933年4月に音楽院を解雇、作品も演奏禁止処分となり、1934年12月には肺結核で亡くなっています。
ロスバウトはゼクレスから多岐に渡る教えを受け、歌曲、室内楽、フルオーケストラ作品から、印象主義の作品まで多くの経験を重ねていきます。
1914年(19歳) ホッホ音楽院在学
◆6月28日、サラエヴォ事件発生。フランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーが、ボスニア系セルビア人プリンツィプらにより殺害。
◆7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告。第1次世界大戦開戦。オーストリアの軍事予算は少なく、ドイツの4分の1、フランスの3分の1という金額で、人口に比して兵員数も少なく、火器類も旧式、野砲や重砲も限られ、ドイツの支援を受けなければ戦闘をおこなえない状態でした。
●ロスバウト、医師の診断により兵役を免除。多民族国家「オーストリア=ハンガリー帝国」は、「兵役」も他国に比べて緩く、開戦当時の年間新規徴兵数は約10万人で、ドイツの約28万人、ロシアの約33万人などと較べてかなり低い水準でした。オーストリアの指揮者たちの有名どころでも、前線まで行った人はほとんど誰もいないようです。
◆8月1日、ドイツがロシアに宣戦布告。
◆8月3日、ドイツがフランスに宣戦布告。
◆8月4日、イギリスがドイツに宣戦布告。
1915年(20歳) ホッホ音楽院在学
◆5月23日、イタリアがオーストリアに宣戦布告。
◆10月、オーストリア軍がセルビア全土を占領。
1916年(21歳) ホッホ音楽院在学
◆6〜9月、第1次世界大戦最大規模の戦いとなったガリツィアでの戦闘で、ドイツ&オーストリア軍が、ブルシロフ将軍率いるロシア軍に惨敗。死傷者数約200万人。
◆8月、イタリア、ドイツに宣戦布告。
◆8月、ルーマニアが、オーストリアとドイツに対して宣戦布告。間もなくおこなわれた「トランシルヴァニアの戦い」では、44万人のルーマニア軍が、わずか7万人のドイツ&オーストリア軍に負けまくり、25万人の犠牲を出して敗退、領土も大きく失うものの、ドイツの敗戦が決定的になると、今度は降伏宣言を撤回し、オーストリアとドイツに2度目の宣戦布告、まさかの戦勝国となり、領土を大幅に増やすという離れわざを決めていました。ルーマニア政府の決断と行動の素早さは、人口約750万の国が約70万の人命を失い、約12万の戦傷者を抱えたことを考えると、国民の犠牲により国益の増大を狙うという戦争本来の目的に即したものといえると思います。
一方、オーストリアは約157万の人命を失い、約362万人の戦傷者を抱えることとなります。
◆12月、ブカレスト陥落。
1918年(23歳) ホッホ音楽院在学、ヘッセン=カッセル家の音楽助手
●6月30日、ロスバウト、フランクフルトのホッホ音楽院を卒業。
●ロスバウト、ホッホ音楽院の後援者で、王侯貴族の係累でもある盲目作曲家の音楽助手に就任。アレクサンダー・フリードリヒ・ヴィルヘルム・アルブレヒト・ゲオルク・フォン・ヘッセン[1863-1945]は、ヘッセン=カッセル家の当主で、音楽と芸術を愛し、みずから作曲もおこない、フランクフルト近郊ハーナウの広大な城、フィリップスルーエ城に住む大貴族。ロスバウトは芸術のパトロンでもあるこの貴族の助手を3年間に渡って務めました。
◆11月、「ドイツ国(Deutsches Reich)」で「ドイツ革命」勃発。皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命し、47年間に及んだ「帝政」(通称:ドイツ帝国)が崩壊し、「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)に移行。
◆11月、オーストリアはイタリアに降伏、パドヴァ近くのヴィラ・ジュスティで休戦協定を結び、ほどなくドイツも降伏、コンピエーニュの森の列車で連合国との休戦協定を締結。
1919年(24歳) ヘッセン=カッセル家の音楽助手
◆8月、ヴァイマル憲法公布。
1921年(26歳) ヘッセン=カッセル家の音楽助手、マインツ音楽学校監督、マインツ交響楽団指揮者
●1月1日、ロスバウトは、新設された市立組織、マインツ音楽学校(後のマインツ音楽院)の監督に就任。応募者は約80名いましたが、最年少のロスバウトの支持者には、師のゼクレスと、友人のヒンデミット、フランクフルト歌劇場総監督のルートヴィヒ・ロッテンベルク[1864-1932]、マインツの楽譜出版社ショット社のルートヴィヒ・シュトレッカー[1883-1978]、ヴィリー・シュトレッカー[1884-1958]らが名を連ねていたため、指名を受けることとなりました。この監督業は事実上の学校の長だったほか、マインツ交響楽団との公演の指揮も仕事に含まれており、仕事量は膨大でしたが、若くエネルギッシュだったロスバウトは、着実に実績を積み上げていきました。
マインツ大聖堂や、シャガールのステンドグラスで知られる聖シュテファン教会など、マインツはカトリックの街。ロスバウトもカトリック。
●5月13日、ロスバウト、マインツ交響楽団を指揮して指揮者デビュー。モーツァルトの交響曲第41番『ジュピター』とベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』というプログラム。
●6月、ロスバウト、マインツ交響楽団と2度の演奏会。早くもロスバウトらしさを発揮し、ルディ・シュテファン、コルンゴルト、マーラー、ブラームスというプログラム。
●7〜8月、第1回ドナウエッシンゲン音楽祭開催。ドイツ貴族のマシミリアン・エゴン2世・フュルステンベルク公[1863-1941]の後援で発足した音楽祭で、最初は室内コンサート2日間という規模でスタート。当初から20世紀作品を中心とした構成で、初年度はハーバ、ベルク、ヒンデミット、クレネク、グロース、ペータース、ヤルナッハ、ヴィルナー、ホルヴィッツ、フィリップというオール現代プログラムでした。ロスバウトは大いに刺激を受けます。
◆10月、イギリス政府がオーストリアに対して25万ポンドの借款を実施。これはオーストリアがデフォルトに陥ると東欧圏への影響も大きく,ソ連の動向も懸念され、結果的にイギリス経済に悪影響が出ることから実施されたものです。この金額では不足のため、翌年には債権国4か国で融資のほか、戦時融資国でもあったアメリカは賠償請求を棚上げしていました。
1922年(27歳) マインツ音楽学校監督、マインツ交響楽団指揮者
◆8月、オーストリアのハイパーインフレ収束。
◆10月、英米仏伊4か国が、オーストリアに対し計6億5千万クローネ(560万ポンド)の短期融資。
1923年(28歳) マインツ音楽学校監督、マインツ交響楽団指揮者
◆ドイツのルール工業地帯をフランスが占領。労働者ストライキなどによりハイパーインフレ発生。
●3月7日、ロスバウト、マインツ交響楽団のコンサートで、シェーンベルクとストラヴィンスキーの作品をとりあげ、聴衆の激しい否定的な反応に遭遇しますが、口笛やヤジ、叫び声が収まってから、普通に演奏を再開するという手法を繰り返して公演を無事に終えます。
●6月2日、ロスバウト、結婚。相手はエーデルトラウト・シェーファー=アンドレ[1899-1974]。
1924年(29歳) マインツ音楽学校監督、マインツ交響楽団指揮者、マインツ市立劇場の第2カペルマイスター
●マインツ市立劇場の第2カペルマイスターも兼務。オペラ指揮者としての経験を積みます。
●この時期のロスバウトは、学校の監督、講師、コンサート指揮者、オペラ指揮者としての活動に加え、デビュー間もないヴァイオリニストのサミュエル・ドゥシュキン[1891-1976]のリサイタル・ツアーでピアノ伴奏ををおこなうなど、非常に多忙な音楽家生活を送っていました。
1929年(34歳) マインツ音楽学校監督、マインツ交響楽団指揮者、マインツ市立劇場の第2カペルマイスター、フランクフルト放送交響楽団首席指揮者
●1月7日、ロスバウト、「フランクフルト・オーケストラ協会」を指揮して「ウィンナ・ワルツの夕べ」を開催。
なお、当時のフランクフルト放送交響楽団が、放送以外の通常の演奏会をおこなう場合は、「フランクフルト・オーケストラ協会」という名前を使用しており、年12回の定期公演をおこなっていました。この「協会」方式は、演奏会を自己資金で開催し、利益を基金に積み上げ、年度末に楽員に分配する形でをとるのが一般的です。
なお、この「フランクフルト・オーケストラ協会」名義の演奏会は、ナチ政権誕生の翌1934年から、フランクフルトのムゼウム管弦楽団と合同でおこなうようになり、ロスバウトは指揮者から外されています。
代わりにロスバウトは、1935年1月からフランクフルト放送交響楽団名義の日曜午後のコンサートで指揮するようになります。
●ロスバウト、マインツ音楽学校監督、マインツ交響楽団指揮者、マインツ市立劇場の第2カペルマイスター退任。
●10月1日、ロスバウト、フランクフルト放送交響楽団の第1カペルマイスター(楽長)に就任。第2カペルマイスターは、5年間、同楽団の前身楽団を指揮していたラインホルト・メルテン[1894-1943]です。
◆ドイツの失業者数約200万人。
●ロスバウト、南西ドイツ放送の音楽部門長に就任。
1930年(35歳) フランクフルト放送交響楽団首席指揮者
●ロスバウト、知名度の向上もあり、ベルリンの放送局(Funk-Stunde Berlin)にも出演するようになります。
●ロスバウト、ベルリン・フィルに客演。以後長期にわたり客演することとなります。
●12月、フランクフルトに新たな放送施設「フンクハウス」完成。大ホールの「ゼンデザール」は、充実した放送設備を備えるほか、聴衆を入れた通常の演奏会も開催可能なキャパシティを持っていました。
◆ドイツの失業者数約400万人。
1931年(36歳) フランクフルト放送交響楽団首席指揮者
●11月13日、ロスバウト、ベルリン・フィルを指揮してヒンデミットの「金管楽器と弦楽器のための協奏音楽」をヨーロッパ初演。
●11月、ソ連政府がロスバウトとベルリン・フィルを、モスクワとレニングラードに招聘すると発表。しかし、ロスバウトにはフランクフルトでの放送の仕事(生番組)が数多く入っているため、局側の圧力でソ連からの出演要請をキャンセルせざるを得ませんでした。
1932年(37歳) フランクフルト放送交響楽団首席指揮者
◆ドイツの失業者数約600万人。
1933年(38歳) フランクフルト放送交響楽団首席指揮者
◆1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命。「ドイツ国(Deutsches Reich)」の体制は、14年間続いた「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)から「国家社会主義ドイツ労働者党独裁体制」(通称:ナチス・ドイツ)に移行(1945年まで)。
●2月6日、ロスバウト、フランクフルト放送交響楽団を指揮してフランクフルト歌劇場で「フランツ・レハール・アーベント」を開催。ちなみにレハールはヒトラーが大好きな作曲家で、作曲者みずから『メリー・ウィドウ』の総譜をヒトラーに贈呈していたほどでした。
●2月12日、ロスバウト、「フランクフルト・オーケストラ協会」を指揮してザールバウでエリカ・モリーニを独奏者に招いた演奏会を開催。
◆3月、国民啓蒙・宣伝省大臣にヨーゼフ・ゲッベルスが就任。プロパガンダのほか、新聞・雑誌・放送・音楽・映画・演劇・文学・絵画・観光・旅行などの「管理・検閲」を実施。当初の予算は1400万ライヒスマルクでしたが、1944年には13倍以上の1億8700万ライヒスマルクにまで規模を拡大、下部組織に「帝国文化院」も設置して各分野への統制をおこなっていました。
◆4月7日、ドイツ政府により「職業官吏再建法」が施行。公務員から非アーリア人を追放する法律で、ドイツの全公務員、および新政権により新たに「国有化」された企業・団体の職員が対象。
●4月、フランクフルト放送交響楽団、ユダヤ系楽員を解雇。
●4月末、ドイツ各地の放送局がすべて国有化され再編成。ロスバウトの所属する「南西ドイツ放送」も国有化されて「フランクフルト帝国放送」となったため、ロスバウトにもアーリア人の証明が求められることになりました。
しかしロスバウトの母親は未婚だったため法的な父親は不明。しかも母は20年前に他界しており、父親のことがまったく分からなかったため、母の古くからの友人で、ロスバウト兄弟とも長年の付き合いのあったグラーツのヨハネス・シュトライナーに、実の父親であるという宣誓供述書に署名を依頼、さらに、ヘッセン公の口添えもあって、アーリア人であることが証明され、「職業官吏再建法」をクリア。
●4月末、ドイツ政府により決定されたドイツ南西部の音楽番組の区分計画は驚きの内容でした。
・ケルン放送:シンフォニック・レパートリーとオペラ
・シュトゥットガルト放送:室内音楽
・フランクフルト放送:オペレッタと軽音楽
この制限は、ロスバウトがフランクフルトでおこなってきた「紹介者」としての実績が著しく損なわれる恐れがあるとアドルノなども懸念していましたが、幸いなことに、政府による再編計画は翌年の初めには破棄されています。
●4月末、ロスバウト、第1回「フィレンツェ5月音楽祭」に招かれてフィレンツェを訪問。ベルクやミヨー、バルトーク、クレネクといった人物と交流します。
●5月2日、ロスバウト、ドイツでのクラシック音楽の放送についてイタリア語で講演。クラシック音楽番組の基本構成は、ロマン派作品や古典派作品、良質な軽音楽が主体になるものの、バルトークやストラヴィンスキー、シェーンベルク、ヒンデミットなど新しい音楽の紹介も非常に重要であるといった意味のことを力説します。
●11月1日、ロスバウト、フランクフルト帝国放送管弦楽団の第1カペルマイスターとして年1万3千マルクの報酬が決定、これは音楽部門長も兼務していた前組織「南西ドイツ放送」所属時代に較べて大幅なダウンでした。
●11月27日、ロスバウトは、「フランクフルト・オーケストラ協会」とザールバウで演奏会を開催。ゲストはエンリコ・マイナルディ。
1934年(39歳) フランクフルト放送交響楽団首席指揮者
●1月、ロスバウト、アメリカの大手音楽マネジメント「コロンビア・アーティスツ」のアーサー・ジャドソンから手紙を受け取り、トスカニーニの支援のもと、ロスバウトのアメリカでの雇用を確保する計画がスタートします。
●5月、フィレンツェ5月祭に参加。放送番組の構成に関する講義をイタリア語で実施。前年に続く2度目の講演。
●12月、フランクフルト帝国放送管弦楽団の第2カペルマイスターに、ナチ党員優遇措置の一環としてか、ヨーゼフ・フェリックス・ヘスという無名の人物が就任。
1935年(40歳) フランクフルト放送交響楽団首席指揮者
●1月、ロスバウトは、フランクフルト放送交響楽団名義の日曜午後のコンサートで指揮するようになります。
●2月末、第2楽長でナチ党員のヨーゼフ・フェリックス・ヘスがゲシュタポを訪れ、上司ロスバウトがユダヤ人であると主張し、徹底的にロスバウトを非難。これには、ヘスの能力の低さについて、ロスバウトがふだんから大きな不満を持ち、叱責していたことが背景にあったようです。
●フランクフルト放送交響楽団第2楽長でナチ党員のヨーゼフ・フェリックス・ヘスの妨害により、ストラヴィンスキーのフランクフルトでの演奏会が中止。当時ドイツは、フランスやアメリカに対して第1次世界大戦時の賠償金支払いを中止すると宣言したばかりで、フランスとの関係がさらに悪化。ストラヴィンスキーはフランスの市民権を得たばかりでした。
なお、ストラヴィンスキーの音楽が、ナチ党員音楽家のハンス・ゼヴェルス・ツィーグラー[1893-1978]によって「退廃音楽」に指定され、演奏を禁じられるのは、3年後の1938年のことです。ヴィニフレート・ワーグナーらバイロイトの面々と親しかったツィーグラーは、大手楽譜出版社シャーマーの創設者グスタフ・シルマー(シャーマー)[1829-1893]の孫でもありました。
●4月、ナチ党員ヘスの行動が、フランクフルト帝国放送上層部の知るところとなり、ヘスは翌月に解雇されています。
●5月、フィレンツェ5月祭に参加。放送番組の構成に関する講義をイタリア語で実施。前年に続く3度目の講演。
●6月、解雇されたナチ党員ヘスがフランクフルト帝国放送を提訴。労働裁判所はヘスの解雇を妥当としますが、新聞はナチ党員ヘスの肩を持つ形で報道、ロスバウトにとっては不快なできごととなりました。
1936年(41歳) フランクフルト放送交響楽団首席指揮者
●3月、ロスバウト、手術を受けます。
●5月、フィレンツェ5月祭に参加。放送番組の構成に関する講義をイタリア語で実施。前年に続く4度目の講演。
●6月、ロスバウト、NBCのヨーロッパ・ネットワークで働いていた放送ジャーナリストのマックス・ジョーダンに、アメリカでの仕事確保への支援を求めます。
●8月、ベルリン・オリンピック開催。全ドイツの放送が盛り上がる中、ロスバウトも数々の音楽イベント番組に関わります。
●8月、ロスバウト、ベルリンでNBCのマックス・ジョーダンと面談。ジョーダンはロスバウトにアメリカでの仕事を紹介できるよう尽力すると約束。
●9月、ロスバウト、オーストリアへの休暇旅行。久々の故郷グラーツを訪れたほか、ウィーンにも滞在。ウィーンではトスカニーニと交流。
●9月、ロスバウト、ベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮してモーツァルトのピアノ協奏曲第9番をコーディング-。独奏はギーゼキング。
1937年(42歳) フランクフルト放送交響楽団首席指揮者、ミュンスター市音楽総監督
●2月、ロスバウトに対し、NBCのマックス・ジョーダンからアメリカでの仕事の紹介ができないという連絡。3年間に渡ってナチのプロパガンダ組織という面もある「放送局」で働いていることが問題視されたようです。
●4月、ロスバウト、ベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮してグリーグのピアノ協奏曲とベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番をコーディング-。独奏はギーゼキング。
●5月、フィレンツェ5月祭に参加。放送番組の構成に関する講義をイタリア語で実施。前年に続く5度目の講演。
●7月1日、ロスバウト、ドイツ北西部ヴェストファーレン州のミュンスター市音楽総監督に就任。
●9月25日、ロスバウト、フランクフルト放送交響楽団の首席指揮者としての最後のコンサートを指揮。このオーケストラには、以後も客演指揮者としてたびたび登場しています。
●10月、ロスバウト、ドレスデンでストラヴィンスキー『カルタ遊び』をドイツ初演。
1938年(43歳) ミュンスター市音楽総監督
◆3月、ドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)。
1939年(44歳) ミュンスター市音楽総監督
●4月、ロスバウト、ベルリン放送交響楽団を指揮して総統誕生日祝賀全国放送で演奏。
●5月、ロスバウト、国防軍兵士のためにベートーヴェンの第九を指揮。
◆9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。
◆9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。
◆9月17日、ソ連がポーランドに侵攻。
●10月、ロスバウト、「ドイツ労働戦線コンサート」でギーゼキングと共演。
●10月、ロスバウト、オランダ・ツアー実施。ミュンスター歌劇場の引っ越しプロパガンダ公演で、ロッテルダム、ハーグ、アーネムを巡って『ばらの騎士』などで成功を収めています。
1940年(45歳) ミュンスター市音楽総監督
●ベルリン帝国放送管、ベートーヴェン:序曲『献堂式』、リスト:『人、山の上で聞きしこと』、チャイコフスキー:イタリア奇想曲(CD26)
◆5月、オランダ、ドイツと1週間戦ったのち降伏。ドイツによる占領統治開始。オーストリア・ナチスの党員からオーストリア内務大臣となっていたザイス=インクヴァルト[1892-1946]が国家弁務官に就任。ハーグにドイツ政府占領機関を設置、要職者はほぼ全員オーストリア人という構成。ちなみに当時、オーストリア・ナチスは、オーストリア人の10%が党員ということで、ドイツの入党率7%を大幅に上回っていました(もっとも、ドイツではナチ人気の過熱により1933年4月から1939年5月までの6年間、入党を制限していたという事情もあり、その後は850万人まで伸び、13%を超える入党率に達しています)。
多民族対応に慣れていたオーストリア人と、地元オランダのファシズム政党「オランダ国家社会主義運動(NSB)」の党員により、官僚たちの率いる行政機構をそのまま生かす形で占領統治を実施。なお、「国家社会主義オランダ労働者党(NSNAP,オランダ・ナチス)」はドイツ当局から選ばれず、1941年12月、NSBを除く他の全政党と同じく解党処置となっていました。
当時のオランダの人口は約890万人でしたが、反ナチ勢力約30万人を強制労働のためにドイツに移送したほか、レジスタンス活動家は処刑し、同じ市町村の人間も見せしめで処罰するなどした結果、約4万1000人のオランダ人が処刑。さらに、オランダ在住ユダヤ人約14万人のうち逃げ遅れた約11万人の財産を強奪した上で強制収容所に送致していました。
また、1944年冬には、ドイツ軍が残存するオランダ西部地区への石炭、ガス、電気の供給ルートが「連合軍」によって遮断され、ドイツも水上輸送での食料供給を断ったため、国民の半数にあたる約450万人が影響を受け、約2万2千人のオランダ人が飢餓や寒さが原因で犠牲になっています。
◆6月、フランス、ドイツと46日間戦ったのち休戦協定を締結。大枠で見るとフランス北部がドイツの占領統治、南部が「ヴィシー政権」による統治で、例外が長年の係争地であるエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)地方となります。
同地方はドイツに割譲という形になったため、1938年に併合したオーストリアと同様、ドイツ政府による統治とし、他のドイツ・オーストリア地域と同じく「大管区」に組み込まれ、徴兵なども実施されることとなります(エルザス=ロートリンゲン地域からの徴兵数は約10万人)。
◆8月、バルドゥール・フォン・シーラッハ[1907-1974]が、ウィーン総督兼ウィーン大管区指導者に就任。ヒトラーユーゲント全国指導者として知られたシーラッハは、ウィーンを芸術の都としてさらに盛り上げようと音楽や美術への支援を強化。多くの有名音楽家をウィーンに招聘させ、さらに、退廃芸術の展示や、イギリス演劇、ロシア音楽の上演も認めるなど芸術に対して理解のある人物で、2か月後にはロスバウトもウィーン国立歌劇場に登場しています。
ちなみにシーラッハの父カール[1873-1949]はワイマール劇場の総監督、姉ロザリント[1898-1981]はオペラ歌手でした。
●10月、ロスバウト、ウィーン国立歌劇場に客演。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』で成功。シーラッハの文化政策の一環としての客演でした。
1941年(46歳) ミュンスター市音楽総監督、シュトラースブルク歌劇場音楽監督
◆3月22日、「バーデン大管区」に、ドイツとフランスの長年の係争地である「エルザス=ロートリンゲン地方」を統合した「バーデン=エルザス大管区」が誕生。大管区指導者は、ミュンヘン一揆にも参加していたロベルト・ハインリヒ・ワーグナー[1895-1946]。
●8月1日、ロスバウト、シュトラースブルク歌劇場の音楽監督と、同歌劇場のオーケストラの演奏会時の団体であるシュトラースブルク市立管弦楽団(のちのストラスブール・フィル)の音楽監督に就任(1944年まで)。
1942年(47歳) シュトラースブルク歌劇場音楽監督
●4月、初演。レオ・カウフマン:オペラ『いばら姫』。シュトラースブルク歌劇場。
●6月、初演。レオ・カウフマン:オペラ『美しいアンネルの物語』。シュトラースブルク歌劇場。カウフマンは1944年9月25日に「連合軍」の爆撃により死去。
●11月、初演。フリッツ・アダム:管弦楽のための協奏曲。シュトラースブルク市立管弦楽団。
1943年(48歳) シュトラースブルク歌劇場音楽監督
◆11月1日、モスクワ宣言。第3回モスクワ会議でのソ連・アメリカ・イギリスの外相らにより取り決められた内容で、オーストリアについては、ヒトラーの侵略政策の犠牲となった最初の国であるとされる一方、ドイツへの戦争協力にも言及し、今後、オーストリアそのものがドイツからの解放にどのくらい関与したかで戦争責任の追及が変わってくるなどと指摘。以後、オーストリア国内でのレジスタンスは数を増すこととなり、1944年の終わりには、臨時オーストリア国民委員会も結成して抵抗運動を本格化していました。
1944年(49歳) シュトラースブルク歌劇場音楽監督、ミュンヘン帝国放送管弦楽団指揮者
●春、ロスバウト、シュトラースブルク国家大学でフリードリヒ大王の音楽について講演。
◆9月1日、ゲッベルスにより、全ドイツの劇場(歌劇場)閉鎖令が布告。これは7月20日に発生したヒトラー暗殺未遂事件とクーデーターを収拾させたゲッベルスが、国家総力戦総監に任命され、国家総力戦の一環として劇場を閉鎖することを策定したもので、立案は7月末におこなわれ、一部の劇場では早期の運用がおこなわれていました。
●9月、シュトラースブルク歌劇場閉鎖。シュトラースブルク市立管弦楽団も解散。
◆9月25日、総統命令により、民兵組織「国民突撃隊」の編成が開始。対象者は16歳から60歳の一般市民。約600万人の組織を目指したものの、兵器や軍服の極端な不足や、様々な理由による拒否などにより計画にはまったく満たない状態で、戦果の方も限定的でした。ロスバウトも拒否しています。
●10月1日、ロスバウト、ミュンヘン帝国放送管弦楽団の指揮者に就任。ミュンヘン帝国放送は7月にアメリカ軍に爆撃されて大きな被害を受けており、一時的にバイロイトに局を移転(1945年4月1日まで)。
◆11月23日、シュトラースブルク、アメリカ軍とフランス軍によりドイツから解放。アルザスでの戦闘は1945年2月まで続きます。
1945年(50歳) ミュンヘン帝国放送管弦楽団指揮者、ミュンヘン市音楽総監督、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者
●4月1日、ミュンヘン帝国放送解散。ロスバウトはその後、シュトゥットガルトに転居。
◆4月16日、赤軍のジューコフ元帥によりベルリン砲撃開始。ベルリンの戦いは3週間続き、ドイツ側死者約32万人、ソ連側死者約8万人という激戦となります。
◆4月30日、ヒトラー自殺。ヒトラーはデーニッツ元帥を後継に指名していたため。同日、臨時政府「フレンスブルク政府」が発足。デーニッツが大統領に就任して降伏のための準備を進めます。また、1月からデーニッツの指示で実施中の海軍による市民と兵士の搬送作戦も5月中旬まで継続され約200万人を救出。
◆5月9日、ドイツ降伏。2週間後、デーニッツ逮捕により臨時政府解散。
●10月22日、ロスバウト、ミュンヘン・フィルを指揮。
◆11月20日、ニュルンベルク裁判開始(1946年10月1日まで)。
●11月29日、ミュンヘン市の音楽総監督とミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任。
●12月、ロスバウトの長年の友人で音楽学者・音楽評論家のハインリヒ・シュトローベル[1898-1970]が、新しく設立されたバーデン=バーデンの南西ドイツ放送の音楽部門長に就任。同地域を統治するフランスの軍政府に対し、ロスバウトが絶対に必要であると要請。
●12月、ロスバウト、ストラヴィンスキー:ダンバートン・オークス協奏曲。ミュンヘン・フィル。
1946年(51歳) ミュンヘン市音楽総監督、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者
◆1月、非ナチ化裁判開始(1949年まで)。10万人以上のドイツ人が裁判にかけられ、音楽界でもナチ関連疑惑のあった人物が続々と法廷に送られていたため、連合軍側の作成したブラックリストに載っていなかった(=知名度が高くない)音楽家たちには大きなチャンスが訪れることになります。
●1月、ロスバウト、ドイツ初演。ウィリアム・シューマン:序曲『アメリカン・フェスティヴァル』。ミュンヘン・フィル。
●ロスバウト、バイエルン国立歌劇場でヤナーチェク:『カーチャ・カバノヴァー』を指揮。
●6月、ロスバウト、ドイツ初演。ショスタコーヴィチ:交響曲第5番。ミュンヘン・フィル。
●7月、ロスバウト、プフィッツナー:オペラ『哀れなハインリヒ』を演奏会形式上演。ミュンヘン・フィル。
●9月、ロスバウト、初演。ハインリヒ・シュミット:交響曲。ミュンヘン・フィル。
1947年(52歳) ミュンヘン市音楽総監督、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者
●3月、ロスバウト、現代音楽コンサート団体「Philharmonic Studio」を設立。これは、1914年にシェーンベルクらがウィーンでつくった「私的演奏協会」をモデルに、ロスバウト流にアレンジしてつくったものです。
コンサートは、音楽学者の講義から始まり、ロスバウトによる作品分析とオーケストラによる実例、そして本番演奏という構成でした。
●7月、ロスバウト、初演。エルンスト・シフマン:ピアノ協奏曲。シュヴァルツ、ミュンヘン・フィル。
●12月、ロスバウト、ドイツ初演。ショスタコーヴィチ:交響曲第6番。ミュンヘン・フィル。
1948年(53歳) ミュンヘン市音楽総監督、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者、南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、エクサン・プロヴァンス音楽祭音楽監督
●1月、ロスバウト、ストラヴィンスキー:カプリッチョ。モニク・アース、ミュンヘン・フィル。
●2月、ロスバウト、ドイツ初演。シェーンベルク:室内交響曲第2番。北ドイツ放送管弦楽団。
●4月、ロスバウト、ハルトマンの室内オペラ『シンプリチウス・シンプリチシムスの青年時代』をミュンヘン・フィルと演奏会形式で上演。
●5月、ロスバウト、レコーディング。ミュンヘン・フィル、ユリアン・フォン・カーロイとラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。
●7月、ロスバウト、ミュンヘンでストラヴィンスキー・フェスティヴァル開催。
●ロスバウト、ミュンヘン市音楽総監督とミュンヘン・フィル首席指揮者を実質2年と少しで辞任。南西ドイツ放送の仕事が決まったことに加え、ミュンヘン市側の方針が、伝統的なレパートリー重視という方向で決まったという事情もありました。
●7月、ロスバウト、エクサン・プロヴァンス音楽祭の音楽監督に就任。モーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』を指揮。
●9月19日、ロスバウト、新しく設立された南西ドイツ放送交響楽団を初めて指揮。
●10月1日、ロスバウト、南西ドイツ放送交響楽団の首席指揮者に就任。友人のハインリヒ・シュトローベルが、南西ドイツ放送の音楽部門長だったことで実現した人事ですが、バーデン=バーデンはフランス軍政府の統治する地区ということも重要でした。
●11月、ロスバウト、ドイツ初演。コンラート・ベック:管弦楽のための組曲。南西ドイツ放送響。
1949年(54歳) 南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、エクサン・プロヴァンス音楽祭音楽監督
●1月、ロスバウト、ドイツ初演。ストラヴィンスキー:『オルフェウス』。南西ドイツ放送響。
●2月、ロスバウト、ドイツ初演。ヒンデミット:エロディアード。南西ドイツ放送響。
●5月、ロスバウト、ドイツ初演。ストラヴィンスキー:ミサ曲。南西ドイツ放送響。
●6月、ロスバウト、ドイツ初演。ヒンデミット:ピアノ協奏曲。ゼーマン、南西ドイツ放送響。
●7月、ロスバウト、エクサン・プロヴァンス音楽祭でモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を上演。大きな評判となります。
1950年(55歳) 南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、エクサン・プロヴァンス音楽祭音楽監督
●バイエルン放送響、モーツァルト:交響曲第39番、交響曲第41番『ジュピター』、ハイドン :交響曲第82番『熊』(CD20)
●5月、ロスバウト、トルコに客演。トルコは第2次大戦で「中立国」でしたが、1945年2月23日、「連合国」の圧力により、敗戦確実となっていたドイツと日本に対して宣戦布告、「戦勝国」陣営に組み込まれていました。しかし、ドイツ、日本との関係は良好だったため、実際には軍事行動はおこなわれていません。「連合国」は世界のほかの多くの国に対しても同様の宣戦布告要求圧力をかけていました。
●7月、ロスバウト、エクサン・プロヴァンス音楽祭で、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ』を指揮。
●9月10日、「ドナウ・エッシンゲン音楽祭」が「現代音楽芸術のためのドナウエッシンゲン音楽祭(Donaueschinger Musiktage für zeitgenössische Tonkunst)」に名称変更(1970年まで)。芸術面の運営は南西ドイツ放送に任されるようになり、ロスバウトが中心人物となります。
●9月15日、ロスバウト、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団に客演。音楽監督のエリック・シュミット[1907-2000]は、スイスの作曲家で指揮者。ロスバウトと共にシェーンベルクに師事したこともあるフランクフルト時代からの友人です。
●9月、南西ドイツ放送響、クレーベ:『さえずり機械』(CD39)、ハルトマン:交響曲第2番 『アダージョ』(CD46)
1951年(56歳) 南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、エクサン・プロヴァンス音楽祭音楽監督
●2月25日、ロスバウト、ドイツ初演。メシアン『トゥーランガリーラ交響曲』。南西ドイツ放送交響楽団。メシアン本人からバーンスタイン指揮ボストン交響楽団による初演よりも優れた演奏と称えられます。以後、ロスバウトはトーンハレ管弦楽団とのスイス初演のベルリン・フィルや
●7月、ロスバウト、エクサン・プロヴァンス音楽祭で、モーツァルト『後宮からの誘拐』を指揮。
●秋、ロスバウト、ブーレーズとパリで交流。
●10月、ストラヴィンスキーが南西ドイツ放送交響楽団に客演。
●10月、ケルン放送響、マーラー:交響曲第5番(CD3)
●12月、南西ドイツ放送響、メシアン:トゥーランガリラ交響曲(CD50)
1952年(57歳) 南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、エクサン・プロヴァンス音楽祭音楽監督
●4月、ロスバウト、南アフリカ連邦に客演。
●4月、ケルン放送交響楽団、シベリウス:交響曲第6番(CD34)
●5月、南西ドイツ放送交響楽団員、ストラヴィンスキー:組曲『兵士の物語』(CD39)
●5月、ロスバウト、パリで「20世紀の作品:国際芸術展」に出演し、フランス国立放送管弦楽団を指揮。ストラヴィンスキーも同芸術展に出演していました。
●6月22日、ロスバウト、ISCM(国際現代音楽協会)オーストリア支部より、シェーンベルク・メダルを授与。
●6月、南西ドイツ放送響、ハイドン:交響曲第87番(CD28)、交響曲第104番『ロンドン』(CD31)
●7月、ロスバウト、エクサン・プロヴァンス音楽祭で、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』『フィガロの結婚』を指揮。
●8〜9月、ロスバウト、アルゼンチンに客演。アルゼンチンは第2次大戦で「中立国」でしたが、1945年3月27日、「連合国」の圧力により、敗戦確実となっていたドイツと日本に対して宣戦布告、「戦勝国」陣営に組み込まれていました。しかし、ドイツ、日本との関係は良好だったため、実際には軍事行動はおこなわれていません。「連合国」は世界のほかの多くの国に対しても同様の宣戦布告要求圧力をかけていました。
●9月、南西ドイツ放送響、シェーンベルク:管弦楽団のための5つの小品(CD21)
1953年(58歳) 南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、エクサン・プロヴァンス音楽祭音楽監督
●ベルリン放送響、マーラー:交響曲第7番(CD36-37)
●3月、南西ドイツ放送響、ハイドン:交響曲第100番、交響曲第102番(CD31)
●ベルクマン&ロスバウト(ピアノ)、グラビンガー&ザイラー(打楽器)、バルト―ク:2台ピアノと打楽器のためのソナタ(CD49)
●7月、ロスバウト、エクサン・プロヴァンス音楽祭で、バルトーク:2台のピアノとパーカッションのためのソナタでマリア・ベルクマンと共にピアノ演奏。直前にはバーデン=バーデンでもとりあげていました。
●7月、ロスバウト、エクサン・プロヴァンス音楽祭で、モーツァルト『フィガロの結婚』『コジ・ファン・トゥッテ』を指揮。
●9月、ロスバウト、ベルリン・フィルを指揮してシェーンベルク『モーゼとアロン』の「黄金の子牛の踊り」を演奏。
●10月、南西ドイツ放送響、ノーノ:『2つの表現』(CD39)、メシアン:鳥たちの目覚め(CD51)
●11月、南西ドイツ放送響、ハイドン:交響曲第83番『めんどり』(CD28)
●12月、南西ドイツ放送響、シェーンベルク:『ナポレオンへの頌歌』Op.41(CD21)、ハイドン:交響曲第97番(CD30)
1954年(59歳) 南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、エクサン・プロヴァンス音楽祭音楽監督
●1月、南西ドイツ放送響、マーラー:交響曲第9番(CD6)
●3月12日、ロスバウト、初演。シェーンベルクのオペラ『モーゼとアロン』。北ドイツ放送管弦楽団。初演指揮予定だったシュミット=イッセルシュテットが公演の1週間前にキャンセル、急遽ロスバウトに指揮が依頼され、シェーンベルク作品を得意としていたロスバウトは、短期間のうちに十分に準備をおこなって初演を成功させています。
●4月、ロスバウト、フィルハーモニア管弦楽団に客演。
●4月、ケルン放送交響楽団、ドビュッシー:『遊戯』(CD34)
●6月、南西ドイツ放送響、ハイドン:交響曲第96番『奇蹟』(CD30)
●7月、ロスバウト、エクサン・プロヴァンス音楽祭で、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』『後宮からの誘拐』を指揮。
●パリ音楽院管、モーツァルト:『後宮からの誘拐』序曲(CD54)
●9月、南西ドイツ放送交響楽団員、ストラヴィンスキー:七重奏曲(CD39)
●10月、南西ドイツ放送交響楽団員、ストラヴィンスキー:『ディラン・トーマスを偲んで』(CD49)
●11月、ベルリン・フィル、マーラー:交響曲第1番(CD1)、シベリウス:『フィンランディア』、『トゥオネラの白鳥』、『悲しきワルツ』、『歴史的情景』〜「祝祭」(CD19)
●12月、フランス国立放送管、モーツァルト:交響曲第38番『プラハ』、フォルトナー:大オーケストラのためのカプリチオと終曲、ボリス・ブラッハー:オーケストラ・オーナメント、R.シュトラウス :『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(CD17)
1955年(60歳) 南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、チューリヒ歌劇場音楽監督、エクサン・プロヴァンス音楽祭音楽監督
●1月、南西ドイツ放送響、ウェーバー:『トゥーランドット』序曲(CD47)
●3月、ケルン放送交響楽団、ドビュッシー:夜想曲(CD34)
●4月、ケルン放送響、マーラー:『大地の歌』(CD7)
●4月、南西ドイツ放送響、ウェーバー:『プレツィオーザ』序曲(CD47)
●7月、南西ドイツ放送響、ミヨー:バレエ音楽『世界の創造』(CD42)
●7月、ロスバウト、エクサン・プロヴァンス音楽祭で、モーツァルト『フィガロの結婚』『コジ・ファン・トゥッテ』を指揮。
●パリ音楽院管、モーツァルト:『フィガロの結婚』序曲(CD47)
●10月、ベルリン・フィル、マーラー:交響曲第1番『巨人』(CD35)
●10月、南西ドイツ放送響、クセナキス:61人の音楽家のための『メタスタシス』、ブーレーズ:『ポリフォニーX』(CD51)
●10月24日、ロスバウト、チューリヒ歌劇場音楽監督に就任。
●12月、南西ドイツ放送響、ブルックナー:交響曲第8番(CD14)、ワーグナー:『さまよえるオランダ人』序曲、『リエンツィ』序曲(CD16)、モーツァルト:『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』(CD54)
1956年(61歳) 南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、チューリヒ歌劇場音楽監督、エクサン・プロヴァンス音楽祭音楽監督
●3月、ベルリン・フィル、ブラッハー:コンチェルタンテ・ムジーク、ハイドン:交響曲第92番『オックスフォード』、交響曲第104番『ロンドン』(CD41)
●4月、ラムルー管、グルック:『オルフェオとエウリディーチェ』組曲(CD53)
●ロスバウト、アスコナ音楽祭に出演。
●7月、パリ音楽院管、ラモー:『プラテー』組曲(CD53)
●7月、ロスバウト、エクサン・プロヴァンス音楽祭で、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』を指揮。直後にセッション録音も実施。
●9月、パリ音楽院管、モーツァルト:『ドン・ジョヴァンニ』序曲(CD47)
●9月、南西ドイツ放送響、シューベルト:『ロザムンデ』序曲、交響曲第4番『悲劇的』(CD24)
●12月、南西ドイツ放送響、ブルックナー:交響曲第2番(CD8)
1957年(62歳) 南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、チューリヒ歌劇場音楽監督、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団首席指揮者、エクサン・プロヴァンス音楽祭音楽監督
●南西ドイツ放送響、マーラー:大地の歌(CD52)、モーツァルト:『魔笛』序曲(CD54)
●1月、南西ドイツ放送響、チャイコフスキー:交響曲第4番(CD43)、メンデルスゾーン:劇音楽『真夏の夜の夢』(抜粋)(CD47)
●2月、南西ドイツ放送響、マーラー:交響曲第7番(CD5)
●3月、ベルリン・フィル、シベリウス:『タピオラ』、『カレリア』組曲(CD19)
●3月、南西ドイツ放送響、ワーグナー:『ローエングリン』第1幕前奏曲、『ローエングリン』第3幕前奏曲、ワーグナー:『パルジファル』前奏曲(CD16)
●4月、南西ドイツ放送響、R.シュトラウス:『ツァラトゥストラはかく語りき』(CD18)、シェーンベルク:『月に憑かれたピエロ』(CD21)
●6月、南西ドイツ放送響、ハイドン:交響曲第99番(CD30)
●6月19日、ロスバウト、チューリヒ歌劇場音楽監督を辞任。
●7月、ロスバウト、エクサン・プロヴァンス音楽祭で『コジ・ファン・トゥッテ』『フィガロの結婚』を指揮。
●パリ音楽院管、モーツァルト:『コジ・ファン・トゥッテ』序曲(CD54)
●9月1日、ロスバウト、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団の首席指揮者に就任。通常のクラシック作品と現代作品のほか、スイスの作曲家の作品にも力を入れます。
●9月、南西ドイツ放送響、チャイコフスキー:交響曲第5番(CD44)、ブラームス:交響曲第2番(CD45)
●10月、南西ドイツ放送響、ハイドン:交響曲第90番(CD29)、ストラヴィンスキー:バレエ音楽『アゴン』、ウェーベルン:管弦楽のための6つの小品、ベルク:管弦楽のための3つの小品(CD40)
●12月、南西ドイツ放送響、ブルックナー:交響曲第7番(CD13)
、シューベルト:交響曲第9番『グレート』(CD42)、ウェーバー:『魔弾の射手』序曲(CD47)
1958年(63歳) 南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団首席指揮者、エクサン・プロヴァンス音楽祭音楽監督
●1月、南西ドイツ放送響、ブラームス:セレナーデ第2番(CD24)
●4月、北ドイツ放送響、メシアン:トゥーランガリーラ交響曲
●5月、南西ドイツ放送響、シェーンベルク:セレナーデ(CD48)
●6月、コンセルトヘボウ管、シェーンベルク:弦楽のための変奏曲(CD33)
●6月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。オランダ・フェスティヴァル。シェーンベルク『期待』ほか。
●7月、ロスバウト、エクサン・プロヴァンス音楽祭で、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』を指揮。同音楽祭への最終出演となりました。
●10月、南西ドイツ放送響、ブーレーズ:『力のための詩』(CD51)
●11月、南西ドイツ放送響、ハイドン:交響曲第45番『告別』(CD44)、シベリウス:交響曲第2番(CD45)
●12月、南西ドイツ放送響、R.シュトラウス:『ドン・ファン』(CD18)、ハイドン:交響曲第93番(CD29)
1959年(64歳) 南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団首席指揮者
●1月2日、ロスバウト、シカゴ交響楽団を指揮して北米デビュー。
●2月、南西ドイツ放送響、ブルックナー:交響曲第9番(CD15)、ワーグナー:『タンホイザー』序曲(CD16)、ハイドン:交響曲第58番、第65番(CD28)
●3月、ローマRAI国立交響楽団、ラヴェル:『高雅で感傷的なワルツ』、ニコロ・カスティリオーニ:管弦楽のためのゼクエンツ(CD25)
●5月、南西ドイツ放送響、マーラー:交響曲第4番(CD2)、ハイドン:交響曲第95番(CD29)
●6月、ロスバウト、ヘルシンキに客演。シベリウス週間。
●6月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。オランダ・フェスティヴァル。
●6月、南西ドイツ放送響、ワーグナー:『マイスタージンガー』第3幕前奏曲(CD16)、R.シュトラウス:『マクベス』(CD18)、ベートーヴェン:交響曲第3番『英雄』(CD38)
●7月、コンセルトヘボウ管、ヴェーベルン:管弦楽のための6つの小品(CD32)
●7月、ロスバウト、腎臓手術のためにケルンの病院に入院。その後、合併症を発症し、2か月後に退院。翌年春まで指揮を禁じられます。
1960年(65歳) 南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団首席指揮者
●南西ドイツ放送響、シューマン:交響曲第1番『春』(CD48)
●ニューヨーク・フィル、モーツァルト:交響曲第41番『ジュピター』、ヒンデミット:管弦楽のための協奏曲(CD25)
●10月、南西ドイツ放送響、ペンデレツキ:弦楽と打楽器のための『アナクラシス』(CD51)
●11月、ロスバウト、シカゴ交響楽団に客演。
●12月、南西ドイツ放送響、ブルックナー:交響曲第3番(CD9)
1961年(66歳) 南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団首席指揮者
●南西ドイツ放送響、リゲティ :『アトモスフェール』、シェーンベルク:管弦楽のための変奏曲 Op.31(CD49)
●1月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。
●2月、コンセルトヘボウ管、シューベルト:交響曲第4番『悲劇的』、ダラピッコラ:管弦楽のための変奏曲(CD32)、ケッティング:交響曲第1番、ベルク:管弦楽のための3つの小品(CD33)
●3月、ロスバウト、BBC交響楽団に客演。
●4月、南西ドイツ放送響、マーラー:交響曲第6番(CD4)、ブルックナー:交響曲第4番(CD10)
●ロスバウト、シカゴ交響楽団に客演。
●6月、ロスバウト、南西ドイツ放送交響楽団とウィーン芸術週間で演奏。
●6月、南西ドイツ放送響、ハイドン:交響曲第12番(CD27)、ベートーヴェン:交響曲第8番(CD38)
●7月、南西ドイツ放送響、ブルックナー:交響曲第6番(CD12)、ハイドン:交響曲第19番、第48番『マリア・テレジア』(CD27)
●9月、南西ドイツ放送響、マーラー:交響曲第1番『巨人』(CD22)
●12月、南西ドイツ放送響、ハイドン:交響曲第52番(CD27)
1962年(67歳) 南西ドイツ放送交響楽団首席指揮者、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団首席指揮者
●3月、南西ドイツ放送響、ハイドン:交響曲第104番『ロンドン』(CD43)
●5月、南西ドイツ放送響、ブルックナー:交響曲第5番(CD11)
●5〜6月、ロスバウト、BBC交響楽団に客演。国際現代音楽協会の公演活動の一環として、ヘンツェやストラヴィンスキー、エリオット・カーター作品などを指揮。リハーサルに参加していたカーターの証言によるとロスバウトの健康状態はかなり悪化していました。
●6月、ロスバウト、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。オランダ・フェスティヴァル。
●6月、ウェーバー:『精霊の王』序曲(CD47)
●7月、コンセルトヘボウ管、ストラヴィンスキー:『ペトルーシュカ』(CD46)
●10月16日、ロスバウト、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団との最後のコンサート。
●10月、ロスバウト、ドナウエッシンゲン音楽祭に出演。
●11〜12月、ロスバウト、シカゴ交響楽団に客演。シカゴでの最後の演目はマーラーの交響曲第9番でした。
●12月22日、ロスバウト、南西ドイツ放送交響楽団を指揮。最後の指揮。ロスバウトにとって思い出深いブラームスの交響曲第2番が含まれていました。公演終了後、体調がすぐれなかったロスバウトは、エーデルトラウト夫人と共にスイスの別荘に向かいます。
●12月29日、スイス、ルガノのカラビエッタで死去。
●スイスの自然を愛したロスバウト夫妻は、ロスバウトの遺産を財団で運用することとし、主にバヴォナ渓谷とティチーノ山脈の保全に使うために、これまでに236万6千万フランを支援しています。
【収録情報】
CD 01
●マーラー:交響曲第1番ニ長調『巨人』
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
Recording: Nov. 8, 1954
CD 02
●マーラー:交響曲第4番ト長調
エヴァ=マリア・ローグナー(ソプラノ)
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: May 14, 1959
CD 03
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
ケルン放送交響楽団
Recording: Oct. 22, 1951
CD 4
●マーラー:交響曲第6番イ短調『悲劇的』
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: April 7, 1961
CD 5
●マーラー:交響曲第7番ホ短調
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Feb. 18 & 20, 1957
CD 6
●マーラー:交響曲第9番ニ長調
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Jan. 7, 1954
CD 07
●マーラー:大地の歌
グレース・ホフマン(メゾ・ソプラノ)
エルンスト・ヘフリガー(テノール)
ケルン放送交響楽団
Recording: April 18, 1955
CD 08
●ブルックナー:交響曲第2番ハ短調
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Dec. 10 & 13, 1956
CD 09
●ブルックナー:交響曲第3番ニ短調
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Dec. 17-22, 1960
CD 10
●ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調『ロマンティック』
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: April 20, 1961
CD 11
●ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: May 4, 1962
CD 12
●ブルックナー:交響曲第6番イ長調
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: July 3, 1961
CD 13
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Dec. 30, 1957
CD 14
●ブルックナー:交響曲第8番ハ短調
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Nov. 17, 1955
CD 15
●ブルックナー:交響曲第9番ニ短調
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Feb. 25, 1959
CD 16
●ワーグナー:歌劇『タンホイザー』序曲 WWV 70(1)
●ワーグナー:歌劇『さまよえるオランダ人』序曲 WWV 63(2)
●ワーグナー:歌劇『リエンツィ』序曲 WWV 49(3)
●ワーグナー:歌劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第3幕への前奏曲WWV 96(4)
●ワーグナー:歌劇『ローエングリン』第1幕への前奏曲 WWV 75 (5)
●ワーグナー:歌劇『ローエングリン』第3幕への前奏曲 WWV 75 (6)
●ワーグナー:歌劇『パルジファル』前奏曲 WWV 111 (7)
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Feb. 6, 1959 (1); Dec. 27, 1955 (2); Dec. 28, 1955 (3); June 26, 1959 (4); March 11, 1957 (5,6); March 11, 1957 (7)
CD 17
●モーツァルト:交響曲第38番ニ長調 KV 504『プラハ』
●フォルトナー:大オーケストラのためのカプリチオと終曲
●ボリス・ブラッハー:オーケストラ・オーナメント Op.44
●R.シュトラウス :交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』 Op.28
フランス国立放送管弦楽団
Recording: Dec. 6, 1954
CD 18
●R.シュトラウス :交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』 Op.30*
●R.シュトラウス :交響詩『ドン・ファン』 Op.20**
●R.シュトラウス :交響詩『マクベス』 Op.23***
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: April 11-13, 1957 (*); Dec. 22, 1958 (**); June 23-24, 1959 (**)
CD 19
●シベリウス:交響詩『フィンランディア』 Op.26*
●シベリウス:『トゥオネラの白鳥』Op.22-2**
●シベリウス:『悲しきワルツ』Op.44-1**
●シベリウス:組曲『歴史的情景』から「祝祭」 No. 1 Op.25: No. 3***
●シベリウス:交響詩『タピオラ』 Op.112✝
●シベリウス:『カレリア』組曲 Op.11✝✝
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
Recording: Nov. 3, 1954 (*); Nov. 5, 1954 (**); Nov. 3-4, 1954 (***); March 14-16, 1957 (✝); March 13-14, 1957 (✝✝)
CD 20
●モーツァルト:交響曲第39番変ホ長調 KV 543
●モーツァルト:交響曲第41番ハ長調 KV 551『ジュピター』
●ハイドン :交響曲第82番ハ長調『熊』
バイエルン放送交響楽団
Recording: 1950
CD 21
●シェーンベルク:管弦楽団のための5つの小品 Op.16
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Sep. 22, 1952
●シェーンベルク:『月に憑かれたピエロ』Op.21
ジャンヌ・エリカール(語り)
南西ドイツ放送交響楽団員
Recording: April 4-5, 1957
●シェーンベルク:『ナポレオンへの頌歌』Op.41
デリク・オルセン(語り)
南西ドイツ放送交響楽団員
Recording: Dec. 20, 1953
CD 22
●マーラー:交響曲第1番ニ長調『巨人』
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Sep. 13,1961
CD 23
●メシアン:トゥーランガリーラ交響曲
イヴォンヌ・ロリオ(ピアノ)
ジャンヌ・ロリオ(オンド・マルトノ)
北ドイツ放送交響楽団
Recording: April 28,1958
CD 24
●シューベルト:『ロザムンデ』序曲 Op.26 D. 797 *
●シューベルト:交響曲第4番ハ短調 D. 417『悲劇的』*
●ブラームス:セレナーデ第2番イ長調 Op.16**
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Sep. 6-8,1956 (*); Jan. 16,1958 (**)
CD 25
●モーツァルト:交響曲第41番ハ長調 KV 551『ジュピター』
●ヒンデミット:管弦楽のための協奏曲 Op.38
ニューヨーク・フィルハーモニック
Recording: 1960
●ラヴェル:『高雅で感傷的なワルツ』M. 61
●ニコロ・カスティリオーニ:管弦楽のためのゼクエンツ
ローマRAI国立交響楽団
Recording: March 1959
CD 26
●ベートーヴェン:序曲『献堂式』 Op.124
●リスト:交響詩『人、山の上で聞きしこと』S. 95 (LW G1)
●チャイコフスキー:イタリア奇想曲 Op.45
ベルリン帝国放送管弦楽団
Recording: 1940
CD 27
●ハイドン:交響曲第12番ホ長調*
●ハイドン:交響曲第19番ニ長調**
●ハイドン:交響曲第48番ハ長調『マリア・テレジア』***
●ハイドン:交響曲第52番ハ短調✝
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: June 22, 1961 (*); July 9, 1961 (**); July 8, 1961 (***); Dec. 15-16, 1961 (✝)
CD 28
●ハイドン:交響曲第58番ヘ長調*
●ハイドン:交響曲第65番イ長調**
●ハイドン:交響曲第83番ト短調『めんどり』***
●ハイドン:交響曲第87番イ長調✝
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Feb. 17, 1959 (*); Feb. 16, 1959 (**); Nov. 7, 1953 (***); June 23, 1952 (✝)
CD 29
●ハイドン:交響曲第90番ハ長調*
●ハイドン:交響曲第93番ニ長調**
●ハイドン:交響曲第95番ハ短調***
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Oct. 26, 1957 (*); Dec. 19, 1958 (**); May 19, 1959 (***)
CD 30
●ハイドン:交響曲第96番ニ長調『奇蹟』*
●ハイドン:交響曲第97番ハ長調**
●ハイドン:交響曲第99番変ホ長調***
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: June 25, 1954 (*); Dec. 28, 1953 (**); June 19, 1957 (***)
CD 31
●ハイドン:交響曲第100番ト長調『軍隊』*
●ハイドン:交響曲第102番変ロ長調*
●ハイドン:交響曲第104番ニ長調『ロンドン』
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: March 25, 1953 (*); June 27, 1952 (**)
CD 32
●ヴェーベルン:管弦楽のための6つの小品 Op.6*
●シューベルト:交響曲第4番ハ短調, D417『悲劇的』**
●ダラピッコラ:管弦楽のための変奏曲**
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
Recording: July 9, 1959 (*); Feb. 29, 1961 (**)
CD 33
●オットー・ケッティング:交響曲第1番*
●ベルク:管弦楽のための3つの小品 Op.6*
●シェーンベルク:管弦楽のための変奏曲 Op.31**
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
Recording: Feb. 1, 1961 (*); June 26, 1958 (**)
CD 34
●シベリウス:交響曲第6番ニ短調 Op.104*
●ドビュッシー:夜想曲**
●ドビュッシー:『遊戯』***
ケルン放送合唱団**
ケルン放送交響楽団
Recording: April 21, 1952 (*); March 7, 1955 (**); April 26, 1954 (***)
CD 35
●マーラー:交響曲第1番ニ長調『巨人』
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
Recording: October 1955
CD 36-37
●マーラー:交響曲第7番ホ短調
ベルリン放送交響楽団
Recording: 1953
●ベートーヴェン:交響曲第2番ニ長調 Op.36
ケルン放送交響楽団
Recording: unknown
CD 38
●ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 Op.55『英雄』*
●ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 Op.93**
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: June 25, 1959 (*); June 23-24, 1961 (**)
CD 39
●ストラヴィンスキー:組曲『兵士の物語』*
南西ドイツ放送交響楽団員
Recording: May 5, 1952 (*)
●ストラヴィンスキー:七重奏曲**
●ルイジ・ノーノ:『2つの表現』***
●ギーゼルヘル・クレーベ:『さえずり機械』Op.7✝
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: May 5, 1952 (*); Sep. 22, 1954 (**); Oct. 11, 1953 (***); Sep. 7, 1950 (✝)
CD 40
●ストラヴィンスキー:バレエ音楽『アゴン』
●ウェーベルン:管弦楽のための6つの小品 Op.6
●ベルク:管弦楽のための3つの小品 Op.6
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Oct. 8, 1957 Stereo
CD 41
●ボリス・ブラッハー:コンチェルタンテ・ムジーク Op.10*
●ハイドン:交響曲第92番ト長調『オックスフォード』**
●ハイドン:交響曲第104番ニ長調『ロンドン』***
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
Recording: March 16-17, 1956 (*); March 18-19, 1956 (**); March 19-21, 1956 (***)
CD 42
●シューベルト:交響曲第9番ハ長調 D. 944『グレート』*
●ミヨー:バレエ音楽『世界の創造』 Op.81**
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Dec. 31, 1957 (*); July 16, 1955 (**)
CD 43
●チャイコフスキー:交響曲第4番ヘ短調 Op.36*
●ハイドン:交響曲第104番ニ長調『ロンドン』**
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Jan. 17, 1957 (*); March 30-31, 1962 (**)
CD 44
●ハイドン:交響曲第45番嬰へ短調『告別』*
●チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調 Op.64**
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Nov. 15-19, 1958 (*) Stereo; Sep. 8, 1957 (**)
CD 45
●シベリウス:交響曲第2番ニ長調 Op.43*
●ブラームス:交響曲第2番ニ長調 Op.73**
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Nov. 15-19, 1958 (*) Stereo; Sep. 8, 1957 (**)
CD 46
●ストラヴィンスキー:『ペトルーシュカ』
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
Recording: July 4-5, 1962 Stereo
●カール・アマデウス・ハルトマン:交響曲第2番 『アダージョ』
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Sep. 10, 1950
CD 47
●モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』序曲 KV 492(1)
●モーツァルト:歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲KV 527(2)
パリ音楽院管弦楽団
Recording: 1955 (1); Sep. 20-28, 1956 (2)
●メンデルスゾーン:劇音楽『真夏の夜の夢』(抜粋)(3-5)
●ウェーバー:歌劇『プレツィオーザ』序曲(6)
●ウェーバー:歌劇『トゥーランドット』序曲(7)
●ウェーバー:歌劇『精霊の王』序曲(8)
●ウェーバー:歌劇『魔弾の射手』序曲(9)
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Jan. 17, 1957 (3-5); April 10, 1955 (6); Jan. 13, 1955 (7); June 20, 1962 (8); Dec. 16, 1957 (9);
CD 48
●シューマン:交響曲第1番変ロ長調 Op.38『春』*
●シェーンベルク:セレナーデ, Op.24**
デリク・オルセン(バス)
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: 1960 (*); May 6, 1958 (**)
CD 49
●リゲティ :『アトモスフェール』
●シェーンベルク:管弦楽のための変奏曲 Op.31
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: 1961
●バルト―ク:2台ピアノと打楽器のためのソナタ BB 115, Sz. 110
マリア・ベルクマン(ピアノ), ハンス・ロスバウト(ピアノ), ヴェルナー・グラビンガー(打楽器),エーリヒ・ザイラー(打楽器)
Recording: 1953
●ストラヴィンスキー:『ディラン・トーマスを偲んで』✝
Peter Pears (tenor)
Heinz Stanske, Günther Wiegmann (violin), Albert Dietrich (viola), Leo Koscielny (cello)
Otto Heinl, Werner Michel, Ferdinand Winkelsträter, Hans Mayr (trombones)
Recording: Oct. 17, 1954
CD 50
●メシアン:トゥーランガリラ交響曲
イヴォンヌ・ロリオ(ピアノ)
ジネット・マルトノ(オンド・マルトノ)
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Dec. 23-24,1951
CD 51
●1 メシアン:鳥たちの目覚め
イヴォンヌ・ロリオ(ピアノ)
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Oct. 11, 1953
●2 ペンデレツキ:弦楽と打楽器のための『アナクラシス』
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Oct. 16, 1960
●3 クセナキス:61人の音楽家のための『メタスタシス』
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Oct. 16, 1955
●ブーレーズ:『ポリフォニーX』
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Oct. 5, 1955
●ブーレーズ:テープと3つの管弦楽のための『力のための詩』
ミシェル・ブーケ(テープの声)
ピエール・ブーレーズ&ハンス・ロスバウト(指揮)
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Oct. 19, 1958
CD 52
●マーラー:大地の歌
グレース・ホフマン(メゾ・ソプラノ)
ヘルムート・メルヒェルト(テノール)
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: 1957
CD 53
●グルック:『オルフェオとエウリディーチェ』組曲[1774]
Léopold Simoneau (Orphee)
Suzanne Danco (Eurydice, Une Ombre heureuse)
Pierrette Alarie (L'Amour)
Ensemble Vocal Roger Blanchard
ラムルー管弦楽団
Recording: April 1956
●ラモー:『プラテー』組曲
Michel Sénéchal (Platée), Janine Micheau (La Folie)
Nadine Sautereau (Claine - Thalie), Nicolai Gedda (Thespis - Mercure)
エクサン・プロヴァンス音楽祭合唱団
パリ音楽院管弦楽団
Recording: July 22-23, 1956
CD 54
●モーツァルト:セレナーデ第13番ト長調 KV 525『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: Dec. 5, 1955
●モーツァルト:歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』序曲
●モーツァルト:歌劇『後宮からの誘拐』序曲
パリ音楽院管弦楽団
Recording: 1957, 1954
●モーツァルト:歌劇『魔笛』序曲
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: 1957
●リスト :交響詩第6番 S.100『マゼッパ』
ベルリン帝国放送管弦楽団
Recording: unknown
●ロルフ・アーラント[1922-2015]:『それがバーデン=バーデンの春』
●ライモント:『バーデン=バーデン』
南西ドイツ放送交響楽団
Recording: 1950s
【商品説明:年表シリーズ】
指揮
●ルロイ・アンダーソン
●アレクサンドル・ガウク
●セルゲイ・クーセヴィツキー
●クレメンス・クラウス
●パウル・クレツキ
●オットー・クレンペラー
●ニコライ・ゴロワノフ
●ヴォルフガング・サヴァリッシュ
●カール・シューリヒト
●アンタル・ドラティ
●レナード・バーンスタイン
●ポール・パレー
●フレデリック・フェネル
●ピエール・モントゥー
●フェルディナント・ライトナー
●エーリヒ・ラインスドルフ
鍵盤楽器
●ラルフ・カークパトリック
●イェルク・デムス
●タチアーナ・ニコラーエワ
●マリア・ユージナ
●ワンダ・ランドフスカ
弦楽器
●ガスパール・カサド
●シュナイダー四重奏団
●パスカル弦楽四重奏団
●ハリウッド弦楽四重奏団
●ルッジェーロ・リッチ
作曲家
●ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ
Customer Reviews
投稿日:2019/10/23 (水)
ロスバウトの主要録音集成です。とりわけ新ヴィーン楽派の演奏は、1950年代において飛び抜けた高水準のものだったと思われます。手兵・南西ドイツ放送交響楽団のほか、コンセルトヘボウ管弦楽団、ケルン放送交響楽団が非常に好調です。大半はモノラルですが、十分堪能できます。 現代作品のなかでは、クセナキス『メタスタシス』の世界初演の音源(南西ドイツ放響、1955年録音)が特筆すべきものです。この斬新な作品に、初演でこれだけ高度な表現を与えることのできる指揮者とオケは、ほかにいませんでした。リゲティ『アトモスフェール』も、初演時の音源です(南西ドイツ放響、1961年録音)。ブーレーズ『ポリフォニーX』(南西ドイツ放響、1955年録音)、ブーレーズ『力のための詩』(南西ドイツ放響、1958年録音)も貴重です。後年ブーレーズは、後者を自分の作品目録から外したので、この音源以外に聴く機会はなさそうです。
Pillow さん | 京都府 | 不明